ローマ11:33-36「頌栄」(礼拝式シリーズ⑩|宣愛師)
2026年3月22日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『ローマ人への手紙』11章33-36節
33 ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。34 「だれが主の心を知っているのですか。
だれが主の助言者になったのですか。
35 だれがまず主に与え、
主から報いを受けるのですか。」36 すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。
Oh my God!:罪さえ用いる神の計画
今日の聖書箇所は、「ああ」という深いため息のような言葉で始まります。ギリシャ語の原文では Ω(オメガ)という一文字だけで記されていて、「おお」という発音です。昔の英語圏では、驚いた時に Oh my God!(ああ、わが神よ!)などと言いましたが、 軽々しく God と言うのは神様に失礼だということで、今は Oh my Gosh! とか Oh my Goodness! などと言い替えたりします。でも、ここでパウロが叫んだのは軽々しい驚きではなく、本当の意味での真剣な Oh my God! でした。
私たちも、人生の中で、「ああ」と驚くようなことがあると思います。神様に祈っていたことが、予想もしていなかったような形で叶えられたとき、「ああ、神様ってすごい!」と驚くこともあるでしょう。また、もっと静かな驚き、思わず「ああ」とため息を付くような経験もあるでしょう。私自身も過去に、ある人をどうしても赦すことができず、その人の罪や過ちについてモヤモヤと考え続けていた時期がありました。しかし、「人の罪をさばいている自分自身こそが罪人じゃないか。そんな自分のためにイエス様が十字架にかかってくださったんじゃないか。それなのに自分にはあの人の罪を責める資格があるだろうか」と気づかされ、「ああ」とため息をつきました。
パウロがこの「ローマ人への手紙」を書き送った当時の教会でも、クリスチャンたちが互いに憎み合うという問題が起こっていました。ユダヤ人とギリシャ人が対立して、互いに互いをさばいていました。ユダヤ人はギリシャ人を「真の神を知らない野蛮な罪人たち」と見下し、ギリシャ人はユダヤ人を「真の神を知っていたくせに、神との契約を破り続けてきた罪人たち」と見下す。そうやって互いの罪を責め合い、自らの正しさを主張し合う人々に、どうやって平和をもたらすことができるだろうか。
神様が用いたのは、驚くべき方法でした。11章32節。〈神は、すべての人を不従順のうちに閉じ込めましたが、それはすべての人をあわれむためだったのです。〉―――パウロはかなり危険なことを言っていると思います。まるで、「神様がすべての人に罪を犯させたのだ」と言っているようなものです。もちろんパウロはそう言いたいわけではありません。私たち人間が罪を犯すのは神様のせいではありません。しかしパウロは、そうやって私たちが犯す罪さえも、神様は神様のご計画のために用いてくださるのだと言いたいのです。ユダヤ人もギリシャ人も、アメリカ人もイラン人も、日本人も韓国人も中国人も、神はすべての人を罪に閉じ込めた。それは、神がすべての人をあわれむため。すべての人がキリストの十字架に頼るしかない世界を造り出すため。だれ一人として、「私のほうが正しい」などと主張することができない、平等な世界を造り出すため。
この神様の驚くべきご計画を知って、パウロは「ああ」と叫んだのです。Oh my God! と叫ばざるを得なかったのです。〈ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。〉人の罪さえも、平和の道具として用いてくださる神! 私たちが日々犯す罪さえも、へりくだって互いに赦し合うための接点としてくださる神! すべての人を罪の中に閉じ込め、すべての人をあわれむことによって、すべての人が互いにあわれみ合う世界を造り出そうとされた神!
神から発し、神によって成り、神に至る
34節と35節でパウロは、旧約聖書を引用しながら語ります。〈「だれが主の心を知っているのですか。だれが主の助言者になったのですか。だれがまず主に与え、主から報いを受けるのですか。」〉私たちは時々、神様に助言をしたくなることがあるかもしれません。「神様、今すぐにあの悪い国を滅ぼしたら良いじゃないですか。」「神様、今すぐにあの罪人たちを滅ぼしたら良いじゃないですか。」しかし神様がお選びになったのは、罪人たちを滅ぼすという道ではなく、ご自身が十字架にかかるという道でした。
なぜ神様が殺されなければならないのか。そんな弱々しい神で本当にこの世界を救えるのか。やっぱり武力が必要なのではないか。暴力が必要なのではないか。神様、そんなご計画で良いのですか。私たちは愚かにも、神様に助言をしたがる。しかし、そんな私たちの愚かな助言を振り払って、十字架の死という驚くべき方法によって、神様はご自身の計画を成し遂げるのです。
神のご計画の偉大さ、その知恵深さに驚いたパウロは、思わず賛美をささげます。「頌栄」と呼ばれる賛美をささげるのです。36節。〈すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。〉―――私たちには理解が及ばないとしても、神様はご自分のご計画を、ご自分の意志で成し遂げてくださる。すべての人を罪の中に閉じ込め、すべての人をあわれむという、だれも考えたことがなかったその計画を、神様は最初から最後まで、ご自分の御心のままに成し遂げてくださる。
私たち盛岡みなみ教会でも、礼拝の最後に「頌栄」を歌います。「頌栄」の「頌」というのは、「ほめたたえる」という意味です。神様の栄光をほめたたえる歌を、礼拝の最後に皆でささげる。「グロリア グロリア グロリア」―――栄光、栄光、栄光。ただ神にのみ栄光あれ。
私たちは意外と、自分自身の栄光を気にしてしまうものです。少しでも善いクリスチャンであろうと演じてしまったり、人からどう見られるかを気にしたりします。礼拝の最中でさえ、賛美歌を上手に歌って一目置かれようとしたり、礼拝の奉仕に対する人からの評価を気にしてしまう。子ども時代の私は、「本日の聖書箇所はどこどこです」という掛け声を聞くやいなや、聖書のページを素早くめくり、他の人よりも早く開くことに優越感を覚えたりしたものです。
でも、そうやって自分への栄光を求めようとする生き方、かっこつけようとする生き方は、結局は疲れてしまう。無理をしてしまう。人間中心主義の世の中では、「すべてのものは人間から発し、人間によって成り、人間に至るのです」という暗黙のメッセージが流れています。「すべてのものは私から発し、私によって成り、私に至るのです」とも言えるでしょう。私の努力次第で、私の人生の成功は決まる。私の頑張り次第で、私に対する周りからの評価は決まる。
しかし、自分自身が人生の神となり、自分の力によって自分に栄光を帰そうとする生き方は、いつか必ず崩壊します。人間は弱いからです。人間は神ではないからです。聖書はあなたを、そのような不可能で非現実的な生き方から解放し、〈すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至る〉という人生に招いています。私たちの失敗や過ちも、私たちの醜い罪さえも、救いのご計画のために用いてくださる神がいるのです。その神に、あなたのすべてをゆだねたら良いのです。
〈この神に、栄光がとこしえにありますように。〉自分への栄光を求める生き方をやめて、ただ神様にのみ栄光があるようにと、私たちはこれからも礼拝をささげ、頌栄をささげ続けたいと思います。私たちの計画ではなく、神様の計画が実現するように。私たちの栄光ではなく、神様の栄光が現されるように。私たちの知恵による平和ではなく、神様の十字架の知恵による平和が成就するように、「グロリア グロリア グロリア」と、ただ神のみに栄光あれと、喜びと感謝をもって、この歌を歌い続けてまいりましょう。お祈りをいたしましょう。
祈り
天の父なる神様。自分の正しさを主張しては、隣人をさばいてしまう私たちです。自分の栄光を求めては、無理をして疲れてしまう私たちです。しかし、そんな私たちの愚かさや罪さえも、十字架のあわれみによって、互いに赦し合うための恵みの機会として用いてくださる、あなたのその不思議なご計画に感謝いたします。どうか私たちを、自分の人生を自分で支配しようとする不安定な歩みではなく、「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至る」という、確かな平安のうちにある歩みへと導いてください。十字架の主キリストの御名によって祈ります。アーメン。

