使徒1:9「天に昇り」(使徒信条⑯|宣愛師)

2025年7月27日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『使徒の働き』1章9節


 9 こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。



「神様はどこにいますか?」

 先月も盛岡短大のチャペル奉仕がありまして、いつものように学生たちから質問を募りました。すると、一人の学生が手を挙げて、「神様はどこにいますか?」と尋ねてくれました。私の勘違いでなければ、その学生の表情はちょっとニヤニヤしたような感じで、「ほら、神様なんてどこにもいないじゃないですか」というような、少し挑戦的な質問だったようにも思いました。

 ソ連の宇宙飛行士だったゲルマン・チトフという人も、こんな風に言いました。「〔宇宙に行ったとき〕私はまわりを見渡したが、神は見当たらなかった」―――神は見当たらなかった、という彼の言葉は、無神論を推し進めていたソ連の宇宙飛行士として当然の発言だったとも言えます。

 目に見えない神様が存在するとは思えない。いや、目に見えない神様が、目に見える人間になってくださったのがイエス様です。ところが、せっかく目に見えるようになってくださったのに、イエス様はまた目に見えなくなってしまった。改めて、使徒の働き1章9節をお読みします。


9 こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。

 せっかく目に見えるようになってくださった神様が、また天に帰ってしまわれた。人々が手で触れることのできるイエス様が、また手の届かない場所に行ってしまわれた。マタイの福音書の最後の部分を見てみると、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(28:20)とイエス様は約束してくださいました。それなのに、はるか遠くにある天に帰ってしまわれた。「いつもあなたがたとともにいます」というイエス様のことばは、不安そうな弟子たちを励ますためのリップサービスに過ぎなかったのでしょうか。


「天」 と 「地」:四次元空間と三次元空間

 聖書は、イエス様が天に昇られた時のことを、次のように記しています。「雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。」イエス様が高く高く昇られて、段々と小さくなっていき、やがて空に浮かぶ雲の高さにまで昇られてついに見えなくなった、という風にも読めます。しかし、聖書の中で「雲」という言葉が使われる時、それは必ずしも空に浮かぶ雲のことではなく、地上を包む霧のようなものを指す場合もあります(出エジプト記40:34など)。ですから、イエス様が天に昇られ、雲に包まれて見えなくなったというのは、必ずしもイエス様が宇宙の果てにまで飛んで行かれて、宇宙の何処かにある「天」と呼ばれる場所に行かれた、という意味ではないと思うのです。

 ここで、皆さんにどうしても見ていただきたいショートアニメがあります。「クォンタム博士、フラットランドに行く」というアニメです。昨年の3月のイースター礼拝でもお見せしたので、もう一度お見せするべきか悩みました。でも、イエス様が天に昇るということについて理解するには、このアニメがとっても役に立つと思うのです。特に、天に昇って目に見えなくなってしまったのに、それでもいつでも私たちとともにいるという、一見すると矛盾するように聞こえるイエス様のことばが、実は矛盾しているわけではないということを理解するためにも、このアニメが役に立つと思います。初めての方も、二度目の方も、ぜひ楽しんでご覧いただければと思います。(YouTubeの「字幕」機能をオンにしてご覧ください。) 

 ―――フラットランドの住民たち、二次元空間の住民たちにとっては、三次元空間というものは考えるだけでも恐ろしいことでした。自分たちよりも「上」の世界がある。自分たちには見えていない世界がある。そのことを口にするだけでも恐ろしいことなのだと。しかし、自分たちよりも「上」の世界を見た時、思わず息が漏れてしまうほどに驚くのです。

 私たちが今生きているのは、三次元空間です。「前後」と「左右」だけの二次元空間に加えて、「上下」という新しい次元も加わって、私たちが住む三次元空間が構成されています。私たちは当然、私たちよりも「上」の次元をもつ空間があるとは夢にも思いません。しかしもし、「前後」でもなく、「左右」でもなく、「上下」でもない、もう一つの次元―――たとえば、「表と裏」のような次元―――が存在するとすれば、どうでしょうか。三次元の世界からは決して目に見えないでしょう。しかし、目には見えないけれど、いつでも私たちの近くにある。聖書が語る「天」と「地」というのは、単に「高いところと低いところ」というよりも、「表と裏」のような関係なのではないかと思うのです。(もちろん、どちらが「表」でどちらが「裏」なのかは考え方次第ですが。)

 もちろん聖書は、「天と地」のことを「表と裏」のようには表現していません。聖書はむしろ、「天」という場所を、人間の力では到底及ばないほど高い場所、というイメージで描いています。天におられる神様は、文字通り雲の上の存在であり、この世界のどんな存在よりも高尚なお方である。そのことを表現するために聖書は、“地上よりもはるかに高いところ”という意味で「天」というイメージを語ります。私たちもその語り方を大切にしたいと思います。

 しかしそれと同時に聖書がくり返し語っているのは、「天」におられるはずの神様が、実は私たちのすぐ近くにいてくださる、ということです。「天」におられる神は、私たちから遠く離れた神ではない、ということです。天に昇られたイエス様を信じるということは、目に見えないけれどいつもともにいてくださるイエス様を信じるということです。雲の上の存在、手の届かない存在ではなく、私たちの親しい友となってくださった方を信じて、安心して生きるということなのです。


“中心”から離れていても

 最後に、イエス様が天に昇られたということの意味をもう一つだけ確認したいと思います。それは、イエス様はこの地上の特定の場所を特別扱いしておられない、ということです。イエス様が天に昇られ、この地上のどこにもおられないということは、もはやこの世界の中心はエルサレムでもなく、ローマでもなく、ロンドンでもニューヨークでも東京でもない、ということです。イエス様が天に昇られたということは、この世界には中心がなくなったということです。

 先日も、Kくんがこんな質問をしてくれました。「どうして旧約聖書のイスラエルの民って、すぐに金の子牛みたいな偶像を造っちゃうんですかね。やっぱり目に見える神様のほうが安心するんでしょうか?」―――目に見える神様のほうが安心する。地上のどこかにいてくれて、手で触れられる神様のほうが確かな感じがする。神様の目の前に立って、手を合わせたりできたほうが、お祈りが確実に伝わるような、そんな感じもする。

 地上のどこかにいる、目に見える神様を信じるならば、世界に中心をつくるのは簡単です。金の子牛を造って神として拝めば、金の子牛が置かれた神殿が世界の中心だということになり、神殿に近い人間は価値の高い存在、遠い人間は価値の低い存在、場合によっては敵だとか、罪人だということになるのです。目に見える神は、こうして格差を生みだしていく。差別を生み出していく。たとえ、金の子牛の数を増やしてみたり、あちこちに場所を移動し続けたとしても、その神は近くにいる人々を祝福し、遠くにいる人々を排除する、というシステムを生み続けます。

 “異端”と呼ばれるキリスト教系グループの中にも、この世界のどこかに中心を再びつくろうとするグループが少なくありません。あるグループでは、韓国こそがキリストの再臨の地であり、韓国人こそが選ばれた民である、と主張します。またアメリカで生まれた別のグループでは、自分たちにはイスラエルの失われし十部族の血が流れていると主張し、アメリカ大陸がイスラエルに代わる新しい約束の地であるかのような振る舞いをします。そのように主張したほうが、人が集まるのだと思います。自分は特別な場所にいて、特別な人間なのだ、と思わせてくれるからです。

 しかし、そのようにして再びこの世界のどこかに中心をつくろうとすること自体が、イエス様が天に昇られ、地上におられないということの意味を軽んじているように、私には思えるのです。イエス様が天に昇られたということは、誰一人として特別な存在はおらず、しかし誰一人として特別ではない存在はいない、ということです。

 ここ数週間、盛岡みなみ教会にはたくさんの素敵なゲストが来てくれました。その中には、東京大学を卒業した後に農林水産省で働いているという人や、経済産業省のプロジェクトにコンサルタントとして参加して来月はサウジアラビアに行くという人など、まさに日本の中心部で働いている、そんな立派なクリスチャンの方々もいました。そんな友人たちがいるということは、私たちにとって誇らしいことですし、そんな友人たちのために心から祈りたいと思います。

 しかし同時に、そういう大きな世界に関わっている人たち、国家の中心部に関わっているような人たちの話を聞くと、この岩手の地で生きている自分たちが、何か小さな存在のように思えてしまうということもあり得るのです。人々の注目が集まり、お金やエネルギーが集まるような場所に、私たちの心も自然と向いていくからです。やっぱりこの世界には中心というものがあって、そこに近ければ近いほど価値のある人間である、そんなふうに思ってしまう私たちがいる。

 岩手県の中にも、中心と周辺というものが少なからずあるでしょう。沿岸から盛岡に来る人たちの中には、周辺から中心部に行くという感覚を持つ人は少なくないでしょう。その盛岡市の中にも、「盛岡駅エリア」や「大通・菜園エリア」「盛岡城跡エリア」などが「中心市街地」として定められています。「実家は菜園通りです」みたいなことを聞くと、ちょっと「おっ」と思ったりするわけです。もしくは、駅の周辺の高層マンションに住んでいる人たちを見ては、自分はあんな立派なところには住めないなと比べて勝手に落ち込んだり、どうせあんなところは高いだけだと嫌味っぽいことを考えてみたり、そんなこともあるかもしれません。

 そんな時に私たちは、イエス様が天に昇られた、ということの意味を思い出したいのです。この世界から中心というものを無くし、すべての人と同じ距離で関わってくださるイエス様の存在を思い出したいのです。私たちがどんな場所に住んでいるか、どんな立場にあるか、どんな仕事をしているかということによって、私たちとイエス様の距離が変わることはない。たとえ私が、この世界の隅っこの隅っこにいたとしても、たとえ私が、外の世界に出ることさえできずに部屋の中でうずくまっていたとしても、それでイエス様が私から遠く離れてしまうことはない。中心であろうと周辺であろうと、天におられるイエス様は、変わらず私とともにいてくださる。イエス様が私の友達でいてくださる。それ以上に何かが必要でしょうか。この地上にある何か、目に見える何かとの距離によって自分の価値を量るのではなく、ただイエス様が私のそばにいてくださる、ただイエス様が私と親しくしてくださるということに、自分の価値を見出していきたいと思うのです。そしてこの事実に基づいて、ただイエス様との距離に基づいて、私たちに与えられた平凡な毎日を、喜びつつ歩んでいきたいと思うのです。だれかと比べて落ち込む必要も、嫌味を言う必要もなく、ただイエス様という方の存在を喜んで歩んでいきたいと思うのです。お祈りをいたします。


祈り

 私たちの父なる神さま。目に見える神を求めてしまう私たちです。自分の存在価値を、目に見えるものや手に届くものによって確かめようとしてしまう私たちです。そして時には、目に見えるそれらの物差しによって、あの人は自分よりも優れているとか、あの人は自分よりも出遅れているなどと考えて、人を差別してしまう心が、私たちにも現れます。そしてその差別に、自分自身も傷ついてしまいます。どうか、天に昇られたイエス様の、どんな人にも分け隔てなく注がれる愛に、この私にも親しく近づいてくださるその慈しみに、目を向けることができますように。目に見える何かとの距離ではなく、イエス様との距離にいつも関心を向け、イエス様の変わらない愛に安らぎを得て歩む者とさせてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。