Ⅰテモテ2:1-6「牧会祈祷」(礼拝式シリーズ⑤|宣愛師)
2026年1月18日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『テモテへの手紙 第一』2章19-28節
1 そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。
2 それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。
3 そのような祈りは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることです。
4 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。
5 神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。
6 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。
「この世の政治なんてどうでもいい」?
衆議院の解散総選挙が決まりました。テレビやSNSが政治家の顔ばかりを映し出す季節がまた始まろうとしています。皆さんの中には、「政治家の顔を見るのもごめんだ」とチャンネルを変えてしまう方もおられるでしょうか。「どうせ嘘ばっかりだ」「誰がやっても同じだ」と政治に失望しておられる方、あるいは、「私たちクリスチャンは天の御国に属する者だ。地上の政治には関わりたくない」と距離を置こうとする方もおられるかもしれません。
今日の聖書箇所の直前、1章20節に登場する「ヒメナイとアレクサンドロ」も、「政治なんてどうでもいい」と考えていたようです。他の手紙と併せ読むと、この「ヒメナイ」という人物は、「復活はすでに起こった」と主張していたことが分かります(第二テモテ2:17-18)。「私たちはキリストによってすでに霊的に復活し、完全な存在になったのだ。すでに復活して完全になった私たちにとって、不完全なこの世界の社会システムなんてどうでも良い」というわけです。1章9節には「不法な者や不従順な者」という表現が出てきますが、これももしかすると、政治や国家や法律を軽んじて好き勝手な生き方をしていたヒメナイたちのことを指していたのかもしれません。
しかし、パウロは語ります。2章1節。〈そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい〉―――「すべての人のために」祈りなさい。そして特に、「王たちと高い地位にあるすべての人のために」祈りなさい。「王たち」というのは、教会を迫害するようなローマ皇帝たちのことです。教会を敵視し、信仰者の命を奪おうとする権力者たち。パウロは、そのような者たちのために祈れ、と命じるのです。これは難しいことです。嫌いな政治家がいれば、顔も見たくないと思ってしまうような私たちです。しかし聖書は、批判する前にまず祈れ、と迫ってきます。
政治家のために祈る、天皇のためにも祈る
権力者たちのために祈るとは、彼らを無条件に支持することではありません。彼らを神として崇めることでもありません。権力者たちのために祈るということは、「彼らもまた、神の助けを必要とする、一人の弱い人間に過ぎない」と認めることです。
当時のローマ帝国では、皇帝礼拝が強要されていました。皇帝を「主」と呼べ、「救い主」と呼べ、「神の子」として拝め。日本の教会も、第二次世界大戦の時代、そのような圧力に直面しました。教会は、イエス・キリストを礼拝すると同時に、天皇を現人神として礼拝するという罪を犯しました。その反省から私たちは、「権力者のために祈る」ということに、どこか身構えてしまうところがあるかもしれません。「また偶像礼拝の過ちを犯すことになるのではないか」と。しかし、聖書が教える祈りは違います。私たちは彼らを神格化するのではありません。むしろ、「彼らもまた私たちと同じ罪人であり、神の赦しを必要とする存在です。主よ、彼らを導いてください」と祈り、唯一の神の御前に彼らを引きずり下ろすのです。
なぜ私たちは、政治家たち、「王たち」のために祈るのでしょうか。それは、神が彼らを愛しておられるからです。4節にはこうあります。〈神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。〉6節にはこうあります。〈キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。〉ここにある「すべての人」とは、文字通りすべての人です。もし私たちが、「あの政治家には祈られる資格もない」と切り捨ててしまうなら、それは「キリストがあの人のために死なれたこと」を否定するのと同じです。神が救いたいと願っておられるたましいを、私たちが勝手に「救われる価値がない」と判断することは許されないのです。私たちは政治家を批判するその前に、自分自身の狭い心を批判しなければなりません。自分自身もまた、祈られなければ滅びるしかなかった罪人であることを思い出さなければなりません。
祈ること、知ること、牧すること
先ほども、司式者のMさんが「牧会祈祷」を祈ってくださいました。多くの教会では牧師だけが祈る「牧会祈祷」ですが、盛岡みなみ教会では司式を担当する役員も祈ります。役員もまた、牧師とともに牧会の役割を担っているからです。「牧会」とは、「教会を牧する」という意味です。「教会を治める」という意味です。ですから「牧会祈祷」の中では、まず第一に教会のための祈りが祈られます。病に苦しんでいる人や、人生の節目にある人、家族を失った人や、様々な事情で礼拝に来たくても来られない人のために、教会全体が心を合わせて祈ります。
祈るということは、知るということでもあります。知っていなければ、祈ることもできません。誰かのために真剣に祈りたいなら、まずはその人の話に耳を傾けなければなりません。「すべての人のために」祈る教会であるということは、すべての人の話に耳を傾ける教会であるということです。そういう意味では、「牧会祈祷」は誰にでも祈れる祈りではありません。教会に集まる一人ひとりの苦しみや悩みのためにいつも祈っている牧師や役員でなければ、簡単に祈れる祈りではないとも言えるかもしれません。
しかしこれは実際のところ、牧師や役員だけの務めではないのです。教会に集う私たち一人ひとりが、それぞれに「牧会祈祷」のできる者となりたいと思います。皆さんは、隣人のために真剣に祈っているでしょうか。なぜ祈らないのでしょうか。私たちが隣人のために祈らないのは、隣人の苦しみを本当には知らないからかもしれません。家族のためにさえ、ちっとも祈らない私たちかもしれません。相手のその心の奥底にある悩みを知ろうとしていないのです。そのように、人を愛せない私たち、家族さえ愛せない私たちのその罪を悔い改める。神様に赦しを求める。それもまた「牧会祈祷」の役割です。
それと同時に、この「牧会祈祷」は、教会のためだけに祈る祈りではありません。なぜなら教会の使命は、「すべての人のために」祈ることだからです。そういう意味では、「牧会祈祷」という呼び方はちょっと狭すぎるかもしれません。教会の祈りは、教会という枠を超えて、家族や友人のための祈りとなり、地域の人々のための祈りとなり、世界の平和を願う祈りとなります。
私たちは、「すべての人のために」祈る教会として成長していきたいと思います。隣人のために祈ります。その苦しみを知ろうとします。家族や友人のためにも祈ります。職場の同僚のためにも祈ります。苦手なあの人のためにも祈ります。好きな政治家のためにも嫌いな政治家のためにも祈ります。政治家たちが抱えているプレッシャーや葛藤や誘惑を少しでも知ろうとして祈ります。私たちは天皇のためにも祈ります。好きだとか嫌いだとかいうこととは関係なく、彼もまた私たちと同じ人間であり、神の赦しを必要とする罪人であるがゆえに、天皇のためにも祈るのです。世界中の国々のためにも祈ります。日本と友好関係にあるとかないとか、キリスト教の国であるとかないとかいうことではなく、すべての国のために、すべての人のために祈ります。それが私たちキリスト教会の使命であり、私たちキリスト教会の生き方だからです。それが私たちの「牧会祈祷」であり、盛岡みなみ教会の祈りです。一言お祈りをいたします。
祈り
すべての人の造り主なる神様。祈ることよりも、批判することに慣れてしまった私たちです。自分のことだけで精一杯になり、世の出来事に心を閉ざしてしまう者です。どうか私たちの狭い心を打ち砕いてください。人をさばいて満足する者ではなく、祈るために耳を傾ける者とならせてください。あなたがすべての人の救いを望んでおられるように、私たちもすべての人を愛し、すべての人の罪のために、すべての人の救いのために祈る教会として歩むことができますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

