ヨハネ12:1-8「ユダの正論とマリアの愛」(まなか師)

2026年1月25日 礼拝メッセージ(佐藤まなか師)
新約聖書『ヨハネの福音書』12章1-8節


1 さて、イエスは過越の祭りの六日前にベタニアに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
2 人々はイエスのために、そこに夕食を用意した。マルタは給仕し、ラザロは、イエスとともに食卓に着いていた人たちの中にいた。
3 一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。
4 弟子の一人で、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った。
5 「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。
7 イエスは言われた。「そのままさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。
8 貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいますが、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。」


マリアの愛と献身

 ヨハネの福音書をご一緒に読み進めています。今日の聖書箇所に記されたマリアの行いは、惜しみない愛、理屈を超えた献身として私たちの心を打ちます。しかし一方で、ユダが投げかけた「この香油を売って、貧しい人々に施すべきだ」という言葉も、聖書の正義に照らせば正しい考えです。実際に私たちも「そんなことにお金を使うなら、もっと困っている人のために使うべきではないか」という問いにぶつかることがあるでしょう。「礼拝をするための時間やお金があるなら、外に出ていって困っている人たちを一人でも多く助けたほうがいいんじゃないですか?」と尋ねられたら、皆さんは何とお答えになるでしょうか。

 過越の祭りの六日前。イエス様がいよいよ十字架へと向かわれる、その直前の出来事です。マルタとマリアとラザロはきょうだいでした。イエス様がよみがえらせてくださったラザロが食卓についている。どんな雰囲気だったのでしょうか。復活の奇跡を喜び合う、いのちにあふれた、楽しい食卓だったのではないかと思います。マルタは相変わらず働き者で、給仕のために忙しくしていました。そこには、これまでのような、イエス様を中心としたあたたかい交わりがあった。

 しかし同時に、これまでとは違うこともありました。それは、ラザロの復活をきっかけに、権力者たちがイエス様を殺すため、本格的に動き始めていたということです。11章の57節を見てみると「祭司長たち、パリサイ人たちはイエスを捕らえるために、イエスがどこにいるかを知っている者は報告するように、という命令を出していた」とあります。ラザロのいのちを救ったがゆえに、イエス様には十字架の死が近づいていた。

 そんな食事の場で、マリアが動きました。彼女は「純粋で非常に高価なナルドの香油」を携えていました。1デナリは1万円くらいですから、300万円くらいの価値のある香油です。当時は一生の蓄えとも言えるような金額です。そんな高価な香油を、マリアはイエス様のために惜しみなく使った。そして彼女はイエス様の足を自分の髪でぬぐいました。当時の人々の足は汚かったはずです。舗装されていない道をサンダルで歩いていたからです。そのイエス様の足を、マリアは自分の髪でぬぐった。髪の毛は当時の女性にとって名誉であり、誇りでしたが、彼女はそれを差し出し、汚れた足を拭うための道具としたわけです。しかも、当時、客人の足をきれいにするのは、奴隷の仕事でした。マリアの姿は、自らを徹底的に低くする礼拝者の姿です。

 彼女の行いは、計算から出たものではありません。計算や理屈よりも先に、心の底から湧き上がった圧倒的な「感謝」です。ラザロをよみがえらせてくださった主、自分を深く愛してくださった主。そのお方の前に立ったとき、彼女の内側には、もう留めておくことのできないほどの愛があふれ出したのです。礼拝とは本来、このようなものではないでしょうか。「義務だから捧げる」のではなく、主の愛に触れ、「そうせずにはいられない」から自分の大切なものを差し出すのです。私たちは、これほどまでにイエス様を愛しているでしょうか。

 「家は香油の香りでいっぱいになった」とヨハネは記しています。良い香りで満たされた家。あふれるばかりのイエス様への愛。彼女の献身が、その場にいたすべての人に影響を与え、隠し通せないほど圧倒的であったことを物語っています。香油の香りは、死を前にしたイエス様の心をも、深く慰めたことでしょう。


正論という名の隠れ蓑

 しかし、その香りに満ちた空間に、冷ややかな、刺すような言葉が投げ込まれます。5節「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」

 「貧しい人々のために」というユダの言葉は、反論の余地がないほどの「正論」です。たしかに、貧しい人を助けることは、神様の御心です。もし私たちがこの場にいたなら、私たちも皆、ユダの立派な意見に賛成したかもしれません。けれども、聖書はユダの本心を記しています。6節「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。」

 ここで私たちは、信仰における恐ろしい誘惑の一つを教えられます。「貧しい人のために」という尊い言葉さえも、自分の汚い部分を隠し、自分を正当化するための道具になり得るということです。ユダは正論を語って、自分の強欲さを隠しました。私たちも、自分の汚い部分を隠すために「正論」を武器にすることがあるかもしれません。たとえば、私が宣愛先生に「あれができていない」「これができていない」と指摘しまくるのは、たいてい、私自身がするべきことをできていないときです。自分ができていないことを隠すために、宣愛先生ができていないことを指摘するわけです。「あれが出しっぱなしだ」とか「これが片付いていない」とか言うときはだいたい、別の部屋では私の持ち物のほうがずっと散らかっているのです。

 私たちは問わなければいけません。「その言葉によって、私は何を隠そうとしているのか」。「私は何を隠すために、その正論を握りしめているのか」。もし、私たちの正しさが誰かの心を萎縮させ、喜びを奪っているのだとしたら、それはもはや福音ではありません。私たちは「正論」という隠れ蓑をかぶり、愛のない言葉で誰かを傷つけてしまっていないだろうか。「私の言葉が正しいかどうか」よりも、「私の言葉で誰を愛せるか」のほうがずっと大事ではないか。


「貧しい人々」は二の次?:礼拝と奉仕

 最後に7節と8節をお読みします。


7 イエスは言われた。「そのままさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。
8 貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいますが、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。」

 「えっ、貧しい人々は二の次でいいの?」と思った方もいるかもしれませんが、むしろイエス様は、貧しい人々に仕えることは、教会がこの世にある限りずっと続く「終わりのない使命」であるとおっしゃっています。

 イエス様がここで強調されたのは、あらゆる奉仕の「源泉」がどこにあるかということです。 私たちは奉仕を重んじるあまり、いつの間にか心が乾いていくことがあります。正しいこと、良いことをしているはずなのに、内側に怒りや疲れが溜まってしまう。誰かの「足りなさ」ばかりが目について、正論を振りかざして傷つけてしまう。そんなとき、私たちの中で、イエス様への愛という「源泉」が枯れかけているのです。

 礼拝は、愛の「源泉」です。隣人を愛し、隣人に仕えるためには、礼拝が不可欠です。なぜなら、私たちはまずイエス様から愛され、そしてその愛によってイエス様を愛するようになり、さらに隣人を愛するようになるからです。イエス様への愛と献身があって初めて、隣人を本当に愛することができるようになるからです。

 私たちは、貧しい人々に仕え、社会の痛みに寄り添うことを、教会の尊い使命として、これからも担い続けましょう。それは、間違いなく主の御心です。それと同時に、私たちの最高のもの――貴重な時間や将来の計画、そして自分自身の存在そのものを、計算抜きでイエス様に差し出す「礼拝」のときを、何よりも大切にしましょう。隣人へのまことの奉仕は、イエス様への献身から始まるからです。

 マリアのしたことは、ユダの目には「無駄な浪費」に見えました。しかしイエス様は、マリアの行いを「葬りへの備え」として受け止め、彼女の愛を守られた。イエス様は、マリアを批判するユダを制して言われました。「そのままさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。」イエス様は、マリアの行為を「自分の死への準備」として受け入れられました。マリア自身がどこまで理解していたかは分かりません。しかし、彼女の愛の行為は、結果として、これから十字架に向かうイエス様の心を深く慰めたのです。

 イエス様は今、十字架に向かおうとしておられます。イエス様ご自身が、私たちのために、そのいのちという最も高価な香油を、十字架の上で一滴残らず注ぎ出そうとしておられます。マリアの香油の香りは、その十字架の愛を先取りして漂っているのです。

 マリアの香油の香りは、家の中だけに留まりませんでした。イエス様を愛する心から流れ出るものは、外へと流れ、周りに必ず広がっていきます。イエス様に最高のものをささげることを惜しまない人は、隣人に対しても、損得勘定抜きでささげる人になっていく。そうすると、私たちの施しは、何かの「隠れ蓑」ではなくなる。隣人への「真実の愛」に変えられていく。そして、やがて私たちが出会う、貧しい人々、傷ついた人々、孤独の中で助けを求める人々を、静かに、しかし確かに包み込んでいくことになるのです。お祈りをいたします。


祈り

 父なる神様。私たちの心の中には、マリアよりもユダに似た部分が多くあります。「正論」という隠れ蓑をかぶり、愛のない言葉で誰かを責めてしまったこともあります。私たちの偽善を、冷え切った心をどうぞお赦しください。聖霊によって私たちの心を新しくしてください。今週、この礼拝の場から遣わされ、私たちが歩むそれぞれの場所で、惜しみなく愛を注ぎ、キリストの香りを漂わせる者とならせてください。私たちの小さな献身が、主の御心を慰めるものとなりますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。