ヨハネ12:12-19「ろばの子に乗って」(まなか師)
2026年3月15日 礼拝メッセージ(佐藤まなか師)
新約聖書『ヨハネの福音書』12章12-19節
12 その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞いて、
13 なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。「ホサナ。
祝福あれ、主の御名によって来られる方に。
イスラエルの王に。」14 イエスはろばの子を見つけて、それに乗られた。次のように書かれているとおりである。
15「恐れるな、娘シオン。
見よ、あなたの王が来られる。
ろばの子に乗って。」16 これらのことは、初め弟子たちには分からなかった。しかし、イエスが栄光を受けられた後、これがイエスについて書かれていたことで、それを人々がイエスに行ったのだと、彼らは思い起こした。
17 さて、イエスがラザロを墓から呼び出して、死人の中からよみがえらせたときにイエスと一緒にいた群衆は、そのことを証しし続けていた。
18 群衆がイエスを出迎えたのは、イエスがこのしるしを行われたことを聞いたからであった。
19 それで、パリサイ人たちは互いに言った。「見てみなさい。何一つうまくいっていない。見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった。」
ローマからの解放を求めて
もし、国のトップや世界的な英雄が、この岩手県、この盛岡市に凱旋してくるとしたら、私たちはどのような光景を思い浮かべるでしょうか。高級車が連なるパレード、厳重な警備、鳴り響く音楽、そして熱狂する群衆でしょうか。二千年前も同じでした。勝利を収めた将軍や王様は、立派な軍馬や戦車に乗り、堂々と入場してくるのが常識でした。
今日の聖書の箇所でも、最高の舞台が整っていました。12節と13節をお読みします。
12 その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞いて、
13 なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。「ホサナ。
祝福あれ、主の御名によって来られる方に。
イスラエルの王に。」
「祭り」とは、エジプトの奴隷状態からの解放を記念する「過越の祭り」のことです。エジプトからの救いを祝うために、エルサレムには何十万もの人々が熱狂のうちに集まっていました。彼らが手にしていた「なつめ椰子の枝」には、特別な意味があります。約200年前、ユダ・マカバイという英雄がシリアの軍を打ち破り、イスラエルの独立を勝ち取ってエルサレムに入城した際、民はこの「なつめ椰子の枝」を振って迎えました。それ以来、なつめ椰子はユダヤ人にとって「軍事的な大勝利」と「民族の独立」の強烈なシンボルとなったのです。
イエス様の時代、ローマ帝国の支配下で自由を奪われていた人々は、この現実に嫌気が差していました。かつてのエジプトからの解放、シリアからの解放のように、ローマ帝国から解放されたい。ローマ帝国をひっくり返して、ユダヤ人としての栄光を取り戻したい。彼らがなつめ椰子を振ってイエス様を迎えたのは、ラザロを生き返らせるほどの力を持つこの人こそ、ローマを武力で倒してくれる「政治的な英雄」だと期待したからです。かつてのように、自分たちを力強く救い出してくれる王を求めて、彼らは叫んでいたのです。
「ろばの子に乗って」
群衆がなつめ椰子を振る中、イエス様はどうされたでしょうか。14節と15節。
14 イエスはろばの子を見つけて、それに乗られた。次のように書かれているとおりである。15「恐れるな、娘シオン。
見よ、あなたの王が来られる。
ろばの子に乗って。」
イエス様は、群衆の熱狂の中で、彼らの期待どおりに軍馬に乗ることはなく、あえて「ろばの子」を見つけて、それに乗られました。15節の言葉は、旧約聖書のゼカリヤ書からの引用です。王様がろばに乗るということは、軍馬や戦車という力を手放し、へりくだって平和をもたらすことの明確な宣言でした。ゼカリヤ書9章9節と10節をお読みします。
9 娘シオンよ、大いに喜べ。
娘エルサレムよ、喜び叫べ。
見よ、あなたの王があなたのところに来る。
義なる者で、勝利を得、
柔和な者で、ろばに乗って。
雌ろばの子である、ろばに乗って。10 わたしは戦車をエフライムから、
軍馬をエルサレムから絶えさせる。
戦いの弓も絶たれる。
彼は諸国の民に平和を告げ、
その支配は海から海へ、
大河から地の果てに至る。
イエス様は無言のうちにこう宣言されたのです。「わたしは、あなたたちが望むような、力で敵をねじ伏せる王ではない。最も低い十字架へと向かう平和の王なのだ」。
一方で群衆は、ろばに乗るイエス様を見ても、なつめ椰子の枝を振り続けました。イエス様が目の前でろばに乗り、「わたしは力で支配する王ではない。平和の王だ」ということを示しておられるのに、群衆は、イエス様がろばに乗っていることの意味が全く見えていませんでした。彼らが求めていたのは、権力者たちに仕えるという現実から解放してくれる王様でした。誰かに仕え続ける人生に、彼らはもううんざりしていたのです。
私たちも「人のために仕え続ける人生なんてごめんだ、そんなつまらない人生は嫌だ」と思うことがあるかもしれません。自分はこんな低いところにいるはずの人間ではない。もっと高いところに行けるはずだ。自分の本来の立場を取り戻したい。自分の尊厳を取り戻したい。そんな願望を抱くことがあるかもしれません。
しかし、イエス様が示したのは、仕える者たちと支配者たちを入れ替えてくれる王様ではありませんでした。むしろイエス様が示したのは、とことん仕える王様の姿でした。自分を低くして、人に仕え抜く王様の姿でした。誰かに仕えて生きる人生は決してつまらないものではなく、むしろそんな生き方こそ、尊いものであり、神様に喜ばれるということを示されたのです。
仕える者として歩む
群衆とイエス様の間にあったズレ。それは、群衆だけでなく、弟子たちにとっても同じでした。16節をお読みします。
16 これらのことは、初め弟子たちには分からなかった。しかし、イエスが栄光を受けられた後、これがイエスについて書かれていたことで、それを人々がイエスに行ったのだと、彼らは思い起こした。
一番近くでイエス様を見ていた弟子たちでさえ、この時は、イエス様がろばの子に乗ることの本当の意味を理解していませんでした。彼らが分かるようになったのは「イエスが栄光を受けられた後」、つまり、十字架と復活を目撃した後のことでした。私たちは、イエス様の十字架を見つめ続ける中で、イエス様との「ズレ」がなくなっていく。そして、仕える者として生きることの尊さを知り、不満で満ちていた心が、喜びに満ちた心に変えられていく。
イエス様がろばに乗られたのは、単なるパフォーマンスではありません。それは、一番低い場所、十字架まで下り、私たち一人ひとりの重荷を背負ってくださるためでした。私たちが誰かに仕えるとき、そこには、ろばに乗った王であるイエス様が共におられます。
今日、この場所には、朝早くから家族のために食事を整えた方がおられます。あるいは、明日からの仕事場で、誰に評価されるわけでもないけれど、黙々と責任を果たそうとしている方がおられます。時に私たちは「自分の人生、こんなことの繰り返しでいいのだろうか。もっと自分を高く評価してくれる場所があるのではないか」と焦りを感じることがあります。けれども、イエス様がろばに乗って私たちのところに来られたのは、そのような「目立たないけれども人に仕える歩み」の中にこそ、本当に価値ある生き方があることを示すためでした。
パリサイ人は悔し紛れに言いました。「世界中があの人の後について行ってしまった」。彼らの言葉のとおり、今、この岩手の地でも、私たちはこうしてイエス様の後に従っています。人間の期待や悪意を超えて、平和の王の支配は、今この場所にも、盛岡みなみ教会にも届いています。
イエス様が乗られたのは、見栄えのする軍馬ではなく、小さく、ゆっくりとしか進めない「ろばの子」でした。私たちの人生も、華やかなパレードのような日ばかりではありません。毎日同じことの繰り返し、誰かの世話、報われないと感じる奉仕……。それはまるで、重荷を背負って歩くろばの子の歩みのようです。でも私たちはよく覚えておきたいのです。王であるイエス様が、あえて軍馬を降りてろばの子を選ばれたのは、誰にも気づかれないところで人に仕え、重荷を負っている私たちと、同じ目線で歩むためでした。私たちが誰かに仕えるとき、ふと前を見るならば、そこには、ろばの子に乗ったイエス様がおられます。ろばの子に乗って、私の前を歩んでくださるイエス様がおられます。人に仕える歩みは、決してつまらないものではありません。それは平和の王であるイエス様と同じ道を歩む、世界で最も幸いな歩みです。お祈りをいたします。
祈り
父なる神様。今日、私たちはみことばを通して、ろばの子に乗って来られた平和の王、イエス様の姿を仰ぎ見ることができました。私たちはともすれば、「人のために仕え続ける人生」に意義を見いだせず、もっと自由になりたい、もっと強くなりたいと願うものです。しかしイエス様は、私たちのために最も低いところまで下り、仕える者の姿をとってくださいました。私たちが日々、家庭で、職場で、学校で、どこか目立たない場所で誰かに仕えるとき、どうか、ろばの子に乗ったあなたが共にいてくださることを思い出させてください。ろばの子に乗ったあなたの後を、ついて行かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。

