Ⅱコリント13:11-13「祝福・後奏」(礼拝式シリーズ⑪|宣愛師)

2026年3月29日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『コリント人への手紙 第二』13章11-13節


11 最後に兄弟たち、喜びなさい。完全になりなさい。慰めを受けなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。
12 聖なる口づけをもって互いにあいさつを交わしなさい。すべての聖徒たちが、あなたがたによろしくと言っています。

13 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。


「祝福」 とは?:生きるべきか、死ぬべきか

 昨年の10月から始まった「礼拝式次第シリーズ」も今日で最終回となります。キリスト教会の礼拝は、「祝福」によって閉じられます。私たち盛岡みなみ教会でも、二つの聖書箇所から祝福が語られます。

 一つは『民数記』6章からです。〈主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。〉そして、それに続いて『コリント人への手紙 第二』13章13節。〈主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。〉

 ところで、果たして「祝福」とは一体何なのでしょうか。聖書の中で最初に「祝福」が登場するのは、『創世記』の1章22節です。神様が海の魚たちや空の鳥たちをお造りになり、〈神はそれらを祝福して、「生めよ。増えよ。海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ」と仰せられた。〉さらに1章28節では、神様が人間をお造りになって、〈神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。……」〉

 「生めよ。増えよ」というのは、単に「子どもをたくさん産みなさい」という意味だけではないと思います。もっと大切なことは、「こんな子たちがたくさんいたらいいな」と願うほどに、神様が私たちを愛してくださっているという事実です。嫌いな人に対して「もっと増えてほしい」とは思いませんよね。「ああ、あの人のこと大嫌い!あの人がもっとたくさんいたらいいのに!」とは思いません。でも神様は私たち人間を見て、「もっとたくさんいてほしい!」と願われたのです。神ご自身が、「あなたと一緒に生きていきたい」と願ってくださること、それが祝福の本質です。

 では、祝福の反対とは何でしょうか。祝福の反対は「呪い」です。呪いとは、存在を否定することです。「邪魔だからあっち行って」「あの人さえいなければいいのに」「マジで消えてほしい」―――学校の教室で、職場で、SNSの世界で、そして時には家庭の中でさえ、存在を否定する呪いの言葉が飛び交うのです。自分で自分を呪ってしまうこともあるでしょう。「私がいないほうがみんな楽しいのかもしれない」「自分なんていなくなったほうがいい」「生まれてこなければよかった」―――外側からも内側からも、私たちは日々呪いの言葉によって深く傷ついている。

 だからこそ私たちには、「あなたがいてくれて嬉しい」という祝福が必要なのです。祝福とは、単なるきれい事ではありません。いのちに関わる一大事です。生きるべきか死ぬべきか。生まれてきて本当に良かったのか。私たちのいのちは、この祝福を受け取れるかどうかにかかっています。


「祝祷」 と 「祝福」:願いの祈りか、事実の宣言か

 ところで、盛岡みなみ教会ではこの時間を「祝福」と呼んでいますが、教会によっては「祝祷」と呼んだりします。「祝福の祈祷(祈り)」と書いて「祝祷」です。私が育った教会でも「祝祷」と呼んでいました。なので私は長い間、牧師が神様に向かって、「神様、どうかこの人たちを祝福してください」とお願いしているようなイメージを持っていました。

 しかし聖書を見てみると、これは単なる「お願いの祈り」ではなく、「事実の宣言」だということが分かってきました。民数記6章24節の「主があなたを祝福し、あなたを守られますように」という言葉は、たしかに祈りのような形をとっています。しかしその直前の23節では、神様が祭司たちに対して、「彼らをこのように祝福しなさい」と命じているのです。「彼らのために祈りなさい」ではなく、「彼らをこのように祝福しなさい」なのです。

 また、第二コリント13章13節の「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように」という言葉も、日本語では祈りのように聞こえます。しかしギリシャ語の原文には、「ありますように」という部分は存在しません。「あなたがたすべてとともに」だけなのです。これは祈りというよりも、むしろ断言に近い。「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにあるのだ!」と翻訳してもいいくらいだと思います。

 神様は、今ここにいる私たちを、たしかに祝福してくださっている。「あなたがいてくれて、わたしは嬉しい!」と、神様が声高らかに語りかけてくださっている。その神様の確かな祝福を、牧師は力強く宣言するのです。ですから皆さんも、「神様が私のことを喜んでくれるといいなあ」と願うのではなくて、「神様は私のことを喜んでくださっている」という確信を持ってください。

 「こんな自分が祝福されているはずがない」と疑ってしまうこともあるでしょう。「こんなにも罪深い自分はむしろ呪われるべきだ」と思ってしまう時もあるでしょう。しかし大切なのは、イエス様の十字架によって私たちの呪いは祝福に変えられたのだ、という事実です。本当なら呪われるべき罪人たちを、イエス様は文字通り命懸けで愛し、祝福のうちに招いてくださったのだという事実です。

 今日の礼拝の最初に、「招きのことば」が読まれました。〈その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた〉(イザヤ53:5)―――イエス様の十字架の打ち傷が、私たちを呪いから解き放ち、「神が私たちとともにいてくださる」という祝福に招き入れてくださったのです。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」という最高の祝福に受け入れてくださったのです。


「後奏」:新しい一週間へ、隣人のもとへ

 この祝福の事実が宣言された後、礼拝の最後の最後には「後奏」が流れます。実はキリスト教会の伝統では、この「後奏」のタイミングで牧師が礼拝堂を出て行く、というのが主流だったそうです。なぜ牧師が礼拝堂を出て行くのかと言えば、神様の祝福を受けた私たちが、新しい一週間へ向かって、それぞれの学校や職場や家庭に向かって、神様の祝福を携えて出て行くからです。牧師や神父がまず先頭に立って教会の外に出て行き、その後に続いて一人ひとりが出て行く。

 最近ではそうしない教会が増えていて、盛岡みなみ教会でも皆が礼拝堂の中に留まります。しかし、ピアノの後奏が流れる間、私たちが心がけるべきことは、この礼拝を通して神様から受け取った祝福は、今ここにいない誰かに届けるための祝福でもあるのだ、ということです。

 二千年前の最初期の教会では、礼拝が終わったらまず、仕事や病気などの理由で礼拝に来れなかった仲間たちのために食べ物を届けに行ったのだそうです。私たちも、礼拝に来られなかった教会の仲間や、学校の友人、職場の同僚などを訪ねて、祝福を伝えられないでしょうか。必要とされているのは食べ物だけではないでしょう。呪いの言葉に苦しんでいる人がいます。「自分なんていないほうがいい」と本気で悩んでいる人たちがいます。その人たちに、「あなたがいてくれて、私は嬉しい」と、はっきりと祝福のことばを語るために、私たちは神の祝福を預かったのです。

 私たち盛岡人というのは、おしとやかで奥ゆかしい文化を持っているので、どちらかと言えば、思っていることを直接的に言葉にしません。しかし祝福は、言葉にしなければ届きません。どんなに気恥ずかしくても、はっきり口にしなければ伝わりません。今日の聖書箇所の12節では、〈聖なる口づけをもって互いにあいさつを交わしなさい〉と命じられています。さすがに口づけは日本の文化には合わないと思いますが、相手の目をしっかりと見て、笑顔で声をかけるだけでもいいのです。それだけで、「ああ、私はここにいていいんだ」と思ってもらえるかもしれません。

 いのちの祝福を広げる者として、今週も私たちは、神の祝福を受け取って、十字架の救いを受け取って、それぞれの場所へ遣わされていきます。呪いの言葉が渦巻くこの世界で、私たちが届ける祝福の言葉が、誰かの生きる希望となることを信じて歩み出したいと思います。祈りましょう。


祈り

 父なる神様。呪いの言葉に傷つき続ける私たちが、それでも「生まれてきてよかった」と思えるのは、あなたの祝福を受け取っているからです。あなたが私たちを祝福してくださったように、私たちも隣人を祝福することができますように。「私は必要とされていない」と悩む人に、「あなたがいてくれて嬉しい」と伝えることができますように。「死んでしまいたい」と絶望する人に、「私はあなたと一緒に生きていきたい」と声をかけることができますように。あなたの祝福を広げる器として、私たちを造り変え、用いてください。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。