マルコ14:43-52「聖書が成就するため」(宣愛師)
2024年9月1日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』14章43-52節
14:43 そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二人の一人のユダが現れた。祭司長たち、律法学者たち、長老たちから差し向けられ、剣や棒を手にした群衆も一緒であった。
44 イエスを裏切ろうとしていた者は、彼らと合図を決め、「私が口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえて、しっかりと引いて行くのだ」と言っておいた。
45 ユダはやって来るとすぐ、イエスに近づき、「先生」と言って口づけした。
46 人々は、イエスに手をかけて捕らえた。
47 そのとき、そばに立っていた一人が、剣を抜いて大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした。
48 イエスは彼らに向かって言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。
49 わたしは毎日、宮であなたがたと一緒にいて教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕らえませんでした。しかし、こうなったのは聖書が成就するためです。」
50 皆は、イエスを見捨てて逃げてしまった。51 ある青年が、からだに亜麻布を一枚まとっただけでイエスについて行ったところ、人々が彼を捕らえようとした。
52 すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げた。
ユダの裏切りと“人間不信”
“人間不信”という言葉を調べると、たとえば次のような説明が出てきます。「人間不信とは、相手の言葉や行動を疑って信じられない心理状態にあること。」特徴としては、次のような性質が挙げられていました。「他人の嫌なところばかり目につくので、信頼関係を構築するのが苦手。」「相手が信用できるか試そうと、わざと困らせて反応を確認する。」「他人から見下されることを極端に恐れるため、他人よりも優位に立ちたがる。」また、人間不信の原因としては、「いじめや虐待」「信頼していた人から裏切られた経験」「親との人間関係がうまくいかなかった」などなど。
いろいろ調べていくうちに、悲しい現実に気づいてしまいました。人間不信は連鎖していく、という現実です。人間不信になってしまった人は、自分の周りの人たちにも人間不信を広げてしまう傾向がある。常に周りの人を疑っているから、自分の本音を言えない。家族や親しい友人に対してさえ、自分の本当の気持ちを正直に伝えることができない。すると何が起こるか。人間不信で苦しんでいるあなたのことを、周りの人も信じられなくなるんです。悪循環です。このようなことが世界中で起こり続けている。誰かがこの連鎖を止めなければなりません。しかし、私たち人間が解決するには、あまりにも重すぎる問題かもしれません。一体だれが私たちを救えるのか。
マルコ14章の43節から46節までをお読みします。
43 そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二人の一人のユダが現れた。祭司長たち、律法学者たち、長老たちから差し向けられ、剣や棒を手にした群衆も一緒であった。
44 イエスを裏切ろうとしていた者は、彼らと合図を決め、「私が口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえて、しっかりと引いて行くのだ」と言っておいた。
45 ユダはやって来るとすぐ、イエスに近づき、「先生」と言って口づけした。
46 人々は、イエスに手をかけて捕らえた。
「私が口づけをするのが、その人だ。」過越の祭りは満月の時期に行なわれるので、ある程度は明るい夜だったかもしれませんが、ゲツセマネの園にはオリーブの木が生い茂っていて、月の光は少ししか届きません。薄暗い真夜中には、誰がイエスであるのか、誰を捕らえればよいのか、群衆たちには見分けがつきません。だから、イスカリオテのユダが、顔なんか見えなくてもすぐにイエス様がどこにいるのか見分けられるほどイエス様と親しかったユダが、口づけで合図する。最も深い愛情を表すはずの口づけによって、イエス様を裏切る。人間不信になってしまう人たちの気持ちが、イエス様にはよく分かるのだと思います。イエス様はユダを愛していました。そして、ユダもイエス様を愛していたはずだった。だからこそ、この口づけはあまりにも切ない。
「もう散々だ!これ以上は我慢できない!」イエス様が天から火を降らせて、天使たちを呼び寄せて、イスカリオテのユダを、群衆もろとも滅ぼしてしまえばいいのです。そのように怒りに身を任せたとしても、誰もイエス様に文句は言えないはずです。それほど酷い仕打ちでした。ユダの裏切りは、それほど深く、イエス様の心を傷つけたはずです。しかしイエス様は、何も言わず、抵抗せず、されるがままに捕らえられていく。ユダのせいで十字架にかけられることになるイエス様は、ユダを責めることもなく、むしろユダの罪さえも背負うために、十字架の道を進んでいく。
ユダはなぜイエス様を裏切ったのでしょうか。彼は失望していたのかもしれません。イエス様が救い主だと信じていたのに、ローマ帝国の支配からユダヤ民族を救い出してくださるメシアだと信じていたのに、「人の子は祭司長たちの手に引き渡され、殺されなければならない」なんてとぼけたことを仰り始めた。「失望しました!あなたを信じていたのに!いや、きっと何かの間違いなのでしょう。きっとあなたは、いざとなったら、祭司長たちをやっつけてくださり、ローマ帝国のこともやっつけてくださるんですよね?」そんな微かな希望を胸に、ユダは自ら群衆を率いて、イエス様を捕らえに来たのかもしれない。イエス様に抵抗してほしい。その偉大な力を示して、戦ってほしい。この群衆を、この罪深い自分もろとも、滅ぼしてほしい。これはユダの“試し行動”なのです。イエス様を信じられなくなったユダの、最後の“試し行動”。
しかし、天を見上げても炎は降って来ない。天使の一人も現れない。「この裏切り者!おまえみたいなやつは地獄行きだ!」という断罪の言葉さえ、イエス様の口からは聞こえて来ない。ユダの失望は深まったかもしれません。しかし、サタンがこの世界に仕掛けた悪循環、裏切りと人間不信の連鎖が、この瞬間に食い止められていたんです。裏切りに裏切りで返すことも、不信に不信で返すこともしない、イエス様の限りない愛の深さに、サタンの計画が打ち砕かれていく。
「こうなったのは聖書が成就するためです」
47節から50節までをお読みします。
47 そのとき、そばに立っていた一人が、剣を抜いて大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした。
48 イエスは彼らに向かって言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。
49 わたしは毎日、宮であなたがたと一緒にいて教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕らえませんでした。しかし、こうなったのは聖書が成就するためです。」
50 皆は、イエスを見捨てて逃げてしまった。
一人の人物が、剣を抜いて、大祭司のしもべの耳を切り落とした。ヨハネの福音書によれば、この人物は「シモン・ペテロ」(18章10節)だったとはっきり書かれています。しかし、マルコやマタイやルカの福音書には、彼がペテロだったとは書かれていない。大祭司のしもべに歯向かったこの人物がペテロだったということが知られてしまうと、ペテロが国家反逆罪のような形で捕らえられてしまうから、だからペテロの名前を隠していたけれど、ヨハネの福音書が書かれたのはペテロが死んだ後だったので、問題なく名前を出すことができた、ということかもしれません。
しかし、次のように考えることもできます。ペテロの名前が出されず、彼が「弟子」とさえ呼ばれず、ただ「そばに立っていた一人」とだけ呼ばれたのは、彼には「弟子」と呼ばれる資格さえなかったから。イエス様の十字架の意味を理解せず、イエス様が教えてくださった福音の意味を理解せず、ただ感情に任せて剣を抜いたこの人物には、「弟子」と呼ばれる資格さえなかった。イエス様の教えを理解せず、ただやみくもに正義感を振りかざすような人の信仰は、本物の信仰ではない。本物の弟子ではない。実際、50節でもマルコは、「弟子」という言葉を使いません。「皆」が逃げてしまった、とだけ書いています。彼らもまた、「弟子」と呼ばれる資格はなかった。
「私がイエス様を守るのだ!」「私が本物のキリスト教信仰を守るのだ!」と熱心になり、結果的に周りの人々を容赦なく傷つけてしまう人たちがいます。「あいつらは異端だ!異端者は排除せよ!」と、実際に血を流すこともあれば、言葉の暴力を繰り返すクリスチャンもいます。「LGBTQは罪だ!LGBTQを認めるような奴らの信仰も偽物だ!」と高らかに宣言するクリスチャンもいます。熱心ではあります。イエス様のために必死で戦っている。しかし、そうやって正義感を感じて声高に叫び、剣を抜いたは良いものの、実はイエス様の教えを本当には理解していない、ということもあり得るのです。パウロが第一コリント13章に書いた、「愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです」という戒めを思い起こす必要もあるでしょう。
イエス様が黙って捕らえられたのは、「聖書が成就するため」でした。ペテロはそれを理解していなかったのです。「聖書が成就する」とはどういうことでしょうか。それは、創世記1章の天地創造から始まり、アダムとエバの堕落、イスラエルの選びと堕落、メシアの到来と贖い、そして、新しい世界の創造と神の国の完成、この全てを貫く神のご計画が成就する、ということです。そしてこの壮大な計画の中心に置かれているのが、イザヤ書53章に記された預言です。旧約聖書で最も重要な預言だと言っても過言ではないでしょう。イザヤ書53章の4節から6節をお読みします。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、
私たちの痛みを担った。
それなのに、私たちは思った。
神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、
私たちの咎のために砕かれたのだ。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
6 私たちはみな、羊のようにさまよい、
それぞれ自分勝手な道に向かって行った。
しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。
この聖書を成就させるために、そして新しい世界を創造するために、イエス様は十字架に向かいました。必死になって剣を抜いたペテロには、この聖書が語る奥義が理解できませんでした。イスカリオテのユダが行なった悪質な裏切りに対して、剣を抜くこともなく、天から火を降らせることもなく、ただ私たちの咎を背負って、ユダの罪を背負って、十字架に向かわれたイエス様。人と人との間にある不信の連鎖を断ち切るために、誰のことも憎むことなく、すべての人を愛して、すべての人の罪を背負ってくださったイエス様。新しい天と地が、全ての人が心から愛し合うことのできる新しい世界が、この十字架から始まったのです。ペテロたちにはまだ、この時にはまだ、到底理解の及ばないことでした。私たちはどうでしょうか。
神の国の笑い話へ:「ある青年」 の罪と恥
マルコ14章に戻って、51節と52節をお読みします。
51 ある青年が、からだに亜麻布を一枚まとっただけでイエスについて行ったところ、人々が彼を捕らえようとした。
52 すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げた。
51節と52節に記された、「ある青年」に関する記録。これは実は、マタイにもルカにもヨハネにも書かれておらず、マルコの福音書だけに記録されている出来事です。マルコだけが、一見するとどうでも良いような、削除してしまっても問題ないようなこの小さな記録を書き残している。なぜマルコだけがこの人物について記録したのか。そして、「ある青年」とは一体誰なのか。確かなことは分かりません。しかし、興味深い推測があります。それは、この「青年」こそがマルコなのではないか、という推測です。
この推測には、強いとも弱いとも言えないような、微妙な根拠が三つあります。まず第一に、新約聖書の『使徒の働き』12章12節を読んでみると、「マルコと呼ばれているヨハネの母マリアの家」という言葉が出て来て、その家はエルサレムの近くにあり、イエス様の弟子たちがよく集まっていた家だということが分かる。エルサレムの近くにあって、イエス様の弟子たちがよく集まっていた家ということは、もしかするとこの家は、イエス様が過越の食事、最後の晩餐を行なった家だったかもしれない。つまりマルコは、イエス様が最後の晩餐をした家の息子であり、最後の晩餐を終えたイエス様と弟子たちがゲツセマネの園に向かったことを知っていたのかもしれない。第二に、もし最後の晩餐がマルコの家で行なわれていたとすれば、すでに夜遅い時間でパジャマ姿になっていたであろう青年マルコも、どこかのタイミングでゲツセマネの園に駆けつけたかもしれない。だとすれば、「亜麻布一枚まとっただけで」という奇妙な格好、パジャマ姿も同然の格好をしていたことが説明できる。そして第三に、先ほどもお話したように、この「青年」に関するエピソードはなぜか、マルコの福音書にしか記録されていない。
もちろん、あくまでも推測の域を出ません。確かなことは分かりません。しかし、十分にあり得る話だとも思います。のちにマルコの福音書を記すことになる青年マルコが、自分自身の若かりし頃の姿を記録した。若い頃にやんちゃをした武勇伝、のようなものではありません。恥ずかしい姿です。興味本位かわかりませんが、イエス様について行こうとして、群衆に捕まえられそうになって、裸で逃げ出した、この無様な姿を、マルコは隠すことなく記録した。イエス様が逮捕された時、私もそこにいた、私もイエス様を見捨てて逃げたのだと、正直に書き残した。私はそこにはいなかった、私には関係がない、私には責任はないなどと、安全圏に逃げることはしなかった。
パジャマを脱ぎ捨てて、裸一貫で、すたこらさっさと逃げ出した。まるで吉本新喜劇のように滑稽な、笑い話のようなエピソードです。「昔、こんなことがあってさ」と、マルコもみんなを笑わせていたかもしれません。もちろん、本当は笑えない話です。イエス様を裏切って逃げ出した。ただただ罪深い話です。しかし、この罪深い記録を、恥と失敗の事実を、笑い話とすることさえも許してくださった、イエス様の復活というどんでん返しがあった。憐れみ深いイエス様の赦しがあった。「あの日私は逃げ出してしまったのだ」と、自分を責め続けるために語るのではなく、「あの日私は逃げ出してしまったけれども、そんな私のためにイエス様は十字架にかかってくださったのだ」と、感謝できるようにしてくださった。そうでなければ、こんな恥ずかしい話、死ぬまで誰にも話せなかったはずです。墓場まで持っていくような話です。でも、マルコはそれを人に話すことができた。福音書に書き記すことができた。それは、イエス様の復活と罪の赦しという希望を、彼が確かに、自分のこととして受け取ったからでしょう。
私たちそれぞれにも、恥と失敗に満ちた過去があると思います。こんなこと誰にも言えない、死ぬまで隠し続けるしかない、そんな恥ずかしい出来事が、失敗が、罪が、一人ひとりにあるのではないかと思います。それはもちろん、笑い話では済ませられないことかもしれない。誰かにとても迷惑をかけた、誰かを深く傷つけてしまった、そんな出来事だったかもしれない。誰にも話せない。話したくても話せない。そうやってまた、暗い世界に落ち込んでいく。ふさぎ込んでいく。人間不信の渦の中に陥っていく。自分で自分が嫌になる。しかしその失敗さえも、イエス様がなんとかしてくださるんです。いや、すでに十字架と復活において、なんとかしてくださったと信じていい。自分は本当に、取り返しのつかないことをしてしまったけれども、死ぬほど申し訳ないことをしてしまったけれども、イエス様がその罪さえも贖ってくださった。笑い話に変えてくださった。だから私は、自分の人生の暗黒さえも恐れず語ることができる。自分を責め続けるためにではなく、イエス様に感謝するために、自分の罪の暗闇を語り始めることができる。
神の国が完成した時、イエス様のもとに皆が集まって来て、「イエス様、その節は本当に申し訳ありませんでした」と、誰かが深々と頭を下げる。すると、「そんなこともあったね。大変だったけど、なんとかなったよね」と、イエス様がにっこり笑ってくださる。誰かがまた、「イエス様、あの日、すぐカッとなって、大祭司のしもべに斬りかかったりしてすみませんでした」なんて謝ると、「そういうところがおまえらしいよね」とイエス様が言ってくださって、みんなでクスッと笑う。するとまた別の誰かが、「真夜中のオリーブ山をパンツ一枚で駆け降りたのは、おそらく僕が最初で最後でしょうね」なんてことを言って、みんなで大笑いする。そんな世界が本当に実現するのです。聖書が成就するのです。神の国が完成するのです。罪が赦されるのです。
「その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」イエス様がすべてを背負ってくださいました。裏切りも、恥も、すべて背負ってくださった。そして、それでもなお、私たちを見限ることなく、見捨てることなく、愛し続けてくださった。「その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」私たちが今抱えている苦しみも、悩みも、罪も、イエス様が背負ってくださいます。そして必ず、最後には必ず、笑い話に変えてくださいます。この素晴らしい救いをしっかりと頂いて、新しい一週間も笑顔で、希望を持って歩んでいきたいと思います。お祈りをいたしましょう。
祈り
私たちの父なる神様。裏切りを経験し、人を信じることができなくなり、心から笑えなくなってしまった私たちです。恥ずかしい失敗ばかりをして、取り返しのつかない罪を犯して、死ぬまで下を向いて生きていくしかなかったはずの私たちです。あわれみ深いあなたのご計画がなければ、イエス様の十字架と復活がなければ、聖書が指し示す希望が成就しなければ、私たちの人生は、裏切りと不信に満ちたこの世界は、救いようのないものでした。疑い深い私たちに、人を信じる道を、人に信じてもらう道を再び与えてくださったイエス様、裏切りで終わらない愛を教えてくださったイエス様、心から感謝いたします。御名によってお祈りいたします。アーメン。