ヨハネ6:16-21「嵐の中で」(まなか師)
2025年6月29日 礼拝メッセージ(佐藤まなか師)
新約聖書『ヨハネの福音書』6章16-21節
16 夕方になって、弟子たちは湖畔に下りて行った。
17 そして、舟に乗り込み、カペナウムの方へと湖を渡って行った。すでにあたりは暗く、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。
18 強風が吹いて湖は荒れ始めた。
19 そして、二十五ないし三十スタディオンほど漕ぎ出したころ、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て恐れた。
20 しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」21 それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。すると、舟はすぐに目的地に着いた。

「イエスはまだ……来ておられなかった」
この朝も、皆さんと共に、みことばに聴くことのできる幸いを覚えます。お一人お一人の上に、神様の祝福がありますように。
皆さんは舟に乗ったことがあるでしょうか。私は遊覧船のような大きい船には何度か乗ったことがあるのですが、小さい舟、ボートのような小舟にはほとんど乗ったことがありません。実は、今回説教を準備しながら、どこかで一度だけ、自分でオールを漕いだことがあったような…という記憶がよみがえってきましたが、それがどこだったか思い出せませんでした。
ご存知の方も多いと思いますが、岩手県では、北上市の猊鼻渓という渓谷が、舟下りで有名です。私も一度行ってみたいと思っていますが、流れは穏やかで、船頭さんが棹一本で舟を操ることができ、車椅子の方も舟に乗れるそうです。自分でオールを漕ぐ必要もなければ、舟が転覆して溺れる心配もなさそうです。
今日の箇所の舞台はガリラヤ湖という湖です。ガリラヤ湖も基本的には穏やかな湖なのですが、東西を山に囲まれているので、時折、山からの突風が吹き下ろすらしく、その風のすさまじさは、かなりのものだそうです。今日はガリラヤ湖で嵐に見舞われる弟子たちと、彼らを助けに来るイエス様の姿から、学びたいと思います。
16節と17節をお読みします。
16 夕方になって、弟子たちは湖畔に下りて行った。
17 そして、舟に乗り込み、カペナウムの方へと湖を渡って行った。すでにあたりは暗く、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。
マタイやマルコの福音書を読むと、イエス様が弟子たちを舟に乗せて、向こう岸に行くように言われた、とあります。弟子たちを群衆から守るためだったのかもしれません。でもそれなら、イエス様も一緒に舟に乗ればよかったはずです。なぜイエス様は弟子たちだけで行かせたのか。それは、弟子たちを訓練するためでした。彼らをトレーニングするためでした。
子育ての経験がある方々はより分かるかもしれませんが、親は子どもが成長していくために、一人で何かをやってみるという経験をさせます。たとえば、おつかい。「はじめてのおつかい」というテレビ番組がありますが、子どもに一人で買い物に行かせるわけです。いつもはお父さんやお母さんと一緒にスーパーに行く子どもが、初めて一人で買い物に行く。泣いて立ち止まってしまう子どももいれば、うまく買い物ができない子どももいます。あるいは、親は子どもを電車やバスに一人で乗せる、ということもします。子どもにとっては大冒険ですけれども、親はあらかじめ、電車で子どもの隣に座る人に「よろしくお願いします」と伝えておいたり、バスの運転手さんに「◯◯というバス停で降ります」と伝えておいたりします。そんなふうにして、子どもを見守りつつも、少しずつ、一人で行動する練習をさせるわけです。イエス様も、それまでずっと一緒に過ごしてきた弟子たちからいったん離れて、彼らだけで舟を漕がせたのです。
弟子たちは不安でした。「すでにあたりは暗く、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった」。夕方から夜になっていく時間帯。暗くなっていくにつれて心細さは増します。イエス様はまだ来ない。私も、初めて一人でバスに乗ったときの緊張と不安を思い出します。小学二年生のとき、東京から福島に行く高速バスに一人で乗せられました。東京で父がバスに乗せてくれて、福島に着いたら伯母がバス停で待っていてくれることになっていました。ところが、約束のバス停で降りると、誰もいないのです。来ているはずの伯母がいない。どうしよう。あのときの心細さは忘れられません。伯母は前の用事が長引いてしまったそうで、少ししたら会えたので安心しました。伯母の顔を見るまでの時間は、実際は数分だったのかもしれませんが、とても長い時間のように感じられました。
イエス様がまだ来ていない。これまでずっと一緒だったイエス様がいない。弟子たちはイエス様が共におられない夜を迎えて、不安でたまらなくなります。
そんな彼らを、さらに嵐が襲います。18節と19節をお読みします。
18 強風が吹いて湖は荒れ始めた。
19 そして、二十五ないし三十スタディオンほど漕ぎ出したころ、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て恐れた。
波が高くなり、思うように前に進めません。弟子たちの中には漁師だった者もいましたが、そんな彼らでも思い通りに進めない。何時間も一生懸命に漕いでも、二十五ないし三十スタディオン、つまり4キロから5キロほど進んだだけ。ちょうど湖の真ん中のあたりです。前に進むこともままならない。後ろに引き返すこともできない。そんな彼らのところにイエス様がやって来られます。「やっと来てくださった!」と弟子たちが安心するのかと思いきや、彼らは恐れた。恐ろしくなった。近づいてくるのがイエス様だと分からなかったからです。暗闇の中で、イエス様の顔も見えなかったのでしょう。湖の上を歩いて近づいてくる何者かの存在は、彼らをさらなる恐怖に陥れました。
私たちも、暗闇の中で、嵐に見舞われることがあります。行きたい方向に行けない。思ったとおりに進めない。目的地を見失って、自分がいまどこにいるのかも分からなくなる。風がびゅうびゅうと吹きすさぶ音しか聞こえなくなって、周りがみんな敵に思える。人間関係に悩む。進路に悩む。仕事に、子育てに、介護に悩む。自分自身の病気や老いに悩む。経済的な問題に悩む。自分の力ではどうにもできないことがたくさんある。自分で思い描いていたようにはいかない。
聖書に出てくる「舟」には、教会の姿がたとえられています。伝統的に、教会は自分たちの姿を「舟」に重ね合わせてきました。私たち一人ひとりの人生だけでなく、教会の歩みにも様々な困難が降りかかります。逆風に押し戻され、荒波に揉まれて、先に進めなくなる。どこを目指せばよいか分からなくなって、目的地を見失う。
「イエス様がまだ来ておられな」いという弟子たちの状況は、イエス様の再臨を待つ私たちの姿にも重なります。十字架にかかってよみがえられたイエス様は、天に上げられてしまった。教会は、イエス様が再び来られることを待ち望みながら、吹き荒れる嵐の中で悪戦苦闘します。なんとか前に進もうとしますが、力尽きそうになります。「イエス様、どこにおられるのですか。私たちを見捨てないでください。早く助けに来てください。」
「わたしだ。恐れることはない」
そんなときに、イエス様の声が聞こえてくる。20節。
20 しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」
弟子たちは、声を聞いてイエス様だとすぐに分かりました。「わたしだ」という声を聞いて「イエス様だ!」と分かった。海外の映画やドラマでも、たとえば、門番をしている子分が、親分の「俺だ」という声を聞いて、扉のロックを解除する、なんていうシーンがあったりします。親分は「俺だ」の一言で分かってくれると信じているので、子分にわざわざ名乗ったりはしません。子分のほうも、初めこそ、やって来たのが敵か味方かと緊張が走るものの、「俺だ」という親分の声を聞いてホッと安心するわけです。そこには、親分と子分の信頼関係があるように思います。
イエス様と私たちの関係はどうでしょうか。私たちは、荒波の大きな音と、強風のすさまじい音の中で、イエス様のたしかな御声を聞き取れる者でありたいと思います。そのためには、逆風が吹いていないときに、イエス様の声によく耳を傾けていたい。その声をしっかりと覚えておきたい。私は、以前の説教で、アイドルグループの嵐が好きだったというお話をしましたが、(今日はお天気の嵐の話をしているのでややこしいんですけれども)未だにCMで嵐のメンバーが出てくると、その声に無条件で反応してしまいます。それと同じくらい、どこにいても、イエス様の声に反応できる者でありたいと思うのです。
不思議なことに、ヨハネは「イエス様が嵐をしずめてくださった」とは書いていません。マタイやマルコは「イエス様が嵐をしずめてくださった」と記しているので、イエス様の奇跡がなされたことに間違いはないのですが、でもヨハネはあえてそれを記さない。なぜでしょうか。それは、嵐がおさまったかどうかということが、ヨハネにとっては、もはやあまり重要ではないからです。むしろ、イエス様が来られたということのほうが重要なのです。嵐がどうなったかということよりも、イエス様が共にいてくださることが、ヨハネに喜びを与えた。「わたしだ。恐れることはない」というイエス様の御声が、ヨハネに平安を与えた。ヨハネはそのことを伝えようとしているのだと思います。私たちは、問題が解決するかどうかばかりを気にしてしまいます。そして、問題さえ解決すれば、イエス様が共におられるかどうかなど、どうでもよくなってしまいます。でも、本当に大切なのは、問題が解決するかどうか、苦しみが無くなるかどうかということよりも、イエス様が共にいてくださるかどうか、ということではないか。
吹き荒れる嵐の中で、先の見えない人生の中で、「わたしだ。恐れることはない」というイエス様の声が聞こえてきたならば、どんなに安心するでしょうか。私たちの舟にイエス様を迎えることができたならば、どんなに心強いことでしょうか。人間関係に悩み、進むべき方向に悩み、自分の将来がどうなってしまうのか分からず、途方に暮れてしまうとしても、イエス様が「わたしだ」と語りかけてくださる限り、私たちの歩みは大丈夫なのです。イエス様がおっしゃるとおり、恐れる必要はないのです。たしかにイエス様は天に上げられました。でも、御霊を通して、私たちといまも共にいてくださる。「わたしはここにいる」と何度でも語りかけてくださる。
教会にいれば、悩みも不安もないというわけではありません。信仰を持っていれば全て順調だ、とは決して言えないことを、私たちは知っています。クリスチャンにも苦しみがあります。盛岡みなみ教会の水曜チャペルでは、お互いの祈祷課題、お祈りしてほしいことを分かち合います。短い時間で全てのことを分かち合えるわけではありませんが、それでも、いま悩んでいること、心に重くのしかかっていることを互いに分かち合います。多くを語らない方からも、苦しみや痛みが伝わってくることがあります。水曜チャペルでなくても、日曜日に沈んだ顔をしている仲間がいることに気付きます。様々なときに、様々な形で、私たちには困難が起こる。どんな人にも人生の嵐はやって来る。
そんなとき、誰かに話を聞いてもらえるというだけで、私たちの心はいくぶんか軽くなります。けれども、そこで終わらないのがクリスチャンの交わりです。クリスチャンの醍醐味は、そこからさらに一緒に祈れることです。共に苦しみながら、イエス様に祈ることができます。「この苦しみがなくなりますように」と祈るのではなく、「この苦しみの中で、イエス様が共にいてくださるように」と祈ることができます。そのように祈ること、祈られることを通して、イエス様がおられるという事実を、仲間と一緒に思い出すことができます。「わたしだ。恐れることはない」というイエス様の声を、舟の仲間たちと共に聞くことができます。
「すると、舟はすぐに目的地に着いた」
ヨハネが強調しているもう一つのことがあります。最後に21節をお読みします。
21 それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。すると、舟はすぐに目的地に着いた。
イエス様を舟の中にお迎えしたならば、舟は必ず目的地に着く。嵐の中で行き先を見失うことがあっても、イエス様が共におられるなら、私たちは必ず港に到着できる。これが、ヨハネが伝えようとしていることです。イエス様に連れられて到着してみると、もしかしたら、私たちが最初に思い描いていた場所ではなかった!ということもあるかもしれません。「私の人生、こんなはずじゃなかった!」けれども、イエス様の目的地はそこだったのです。イエス様が私たちのために用意しておられたのは、その港なのです。嵐の中という訓練を通して、イエス様は、私たちが行くべきところに、私たちを連れて行く。
盛岡みなみ教会という舟にも、イエス様をいつも喜んでお迎えしたいと思います。この舟が行くべき港があるでしょう。その港には、私たちに為すべきことが用意されているはずです。隣人のためにもっとできることが備えられているはずです。牧師や伝道師でさえ、教会がこれからどのような方向に進んでいくべきか、分からなくなることがあります。でも、忘れてはならないのは、教会がどんな港にたどり着くかということよりも、まず、イエス様が共にいてくださることが大切だということです。イエス様が共にいるならば、イエス様の目的地に、教会はたどり着く。私たち一人ひとりの人生も同じです。イエス様が共にいてくだされば、必ず目的地にたどり着くのです。
どんな嵐の中を行くときも、私たちの歩みはイエス様の御手の中にあります。イエス様が私たちと共におられるから大丈夫です。たとえ嵐が吹き荒れ、先の見えない人生だとしても、「わたしだ。恐れることはない」と、イエス様は今日も私たちに語りかけておられます。お祈りをいたします。
祈り
父なる神様。私たちの人生には、ときに嵐が吹き荒れます。目的地を見失うことがあります。教会にも逆風が吹き付けて、前に進めなくなることがあります。しかしイエス様は「わたしだ。恐れることはない」といまも力強く語りかけてくださいます。主よ、嵐の中で、私たちがその御声をよく聞き取ることができますように。あなたが共におられるという確かな事実を、皆で思い出すことができますように。そして私たちをあなたの目的地へと導いてくださいますように。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。