ヨハネ21:15-17「人の弱さを愛の強さに」(「弱さ」シリーズ④|宣愛師)
2026年4月5日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『ヨハネの福音書』21章15-17節
15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」
16 イエスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
17 イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
ペテロのプライドと炭火の記憶
新年度が始まりました。新しいクラス、新しい職場、新しい環境の中で、「うまくやっていけそうだ」と楽観的な私たちかもしれません。もしくは、「うまく馴染めなかったらどうしよう」「何か失敗をやらかしてしまったらどうしよう」と悲観的になっている私たちかもしれません。
ある有名な神学者が、インタビューの中でこんな質問をされたそうです。「キリスト教の将来について、あなたは楽観的ですか、それとも悲観的ですか。」すると、その神学者は次のように答えました。「私は楽観的でも悲観的でもありません。イエス・キリストはよみがえられました!」
イエス様の復活は、悲観的とか楽観的という私たちの主観的な理解を越えて、事実としてそこにある。私たちの歩む道が、たとえ平坦に思えても、あるいは険しく見えたとしても、死を打ち破られたイエス様がおられるから、何があっても大丈夫。たとえ私たちが、罪と失敗のどん底に落ち込んだとしても、復活の主イエスは私たちの罪や失敗さえも用いてくださるお方だからです。今日はそのことを、ペテロとイエス様の対話を通して、ご一緒に見ていきたいと思います。
夜通し網を打っても魚が一匹も捕れず、疲れ果てていた弟子たち。その日の朝、ガリラヤ湖畔に現れた復活のイエス様は、彼らのために自ら朝食の準備をして待っておられました。岸辺に上がったペテロの目に飛び込んできたのは、パチパチと音を立てて燃える「炭火」でした(21:9)。ペテロの心は激しく動揺したに違いありません。なぜなら、イエス様が捕らえられ、大祭司の庭で裁判にかけられていたあの冷え込んだ夜、ペテロが震えながら暖をとっていたのもまた「炭火」だったからです(18:18)。
かつてのペテロは、「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません」(マタイ26:33)と豪語していました。「私の主への愛は誰にも負けない。他の弟子たちが逃げ出しても、私だけは命がけでイエス様をお守りする」と、自分の信仰の強さを信じて疑わなかったのです。
しかし現実はどうだったか。あの夜、ペテロは自らの保身のためにイエス様を呪い、「そんな人は知らない」と三度も力強く否定したのです。誰よりも強い信仰を持っていたはずの自分が、誰よりも残酷に主を見捨ててしまった。ペテロはその情けなさと罪悪感に押しつぶされていました。「イエス様に心から謝りたい。でも、もう手遅れだ。イエス様は死んでしまったのだから。」
「あなたはわたしを愛していますか」
ところが、そんなペテロの前に、復活のイエス様が現れたのです。それは、取り返しがつかない罪を犯したペテロを、永遠の愛によって取り戻すためでした。食事を共にされた後、静かにこうお尋ねになったのです。「あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」
かつての自信満々なペテロなら、「はい!私の愛は誰にも負けません!」と即答したでしょう。しかし、今のペテロには、そんな言葉を口にする資格も気力もありません。絞り出すように答えたのは、「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」という、徹底的にへりくだった言葉でした。「この人たちが愛する以上に」なんていう自信は砕け散っていました。
しかし驚くべきことにイエス様は、取り返しのつかない失敗をしたペテロに対して、「わたしの子羊を飼いなさい」と仰るのです。ご自身の大切な教会を、裏切り者に託されたのです。どんなに熱心なクリスチャンだとしても、「自分はあの人よりも熱心だ」というプライドを持っているなら、イエス様の教会のために働くことはできません。しかし自分の罪深さと無力さを思い知り、ただ神のあわれみにすがるしかないと知っている人に、イエス様は大切な役割を与えるのです。
イエス様は再びペテロに尋ねます。「ヨハネの子シモン、あなたはわたしを愛していますか。」今度は、「この人たちが愛する以上に」という言葉は外されました。もはやイエス様は、かつてのペテロの高慢な姿勢を問うことはせず、ただ純粋に、ペテロの愛を確かめようとされるのです。
そして三度目の問いかけに、ペテロは心を痛めます。ペテロもまた、イエス様を三度否定したからです。「ああ、イエス様はあの夜の私の裏切りもご存知なのだ。」そう悟ったペテロは、「主よ、あなたはすべてをご存じです」と答えます。一度目や二度目の答えとは違って、ペテロはもう「はい」とさえ言いません。自分の罪を痛いほど知って、「はい」と言える自信さえありません。
私たちも、日々の生活の中で多くの失敗を重ねます。自分の身を守るための嘘や、誰かを見捨てる冷たさ、誰にも言えないような隠れた罪。私たちは人に対して、自分自身に対して、そして神様に対して、数え切れないほどの過ちを犯して生きています。イエス様はそれも「すべてご存知」です。しかし、すべてをご存知であるにもかかわらず、「どうしてあんなことをしたのか」「いつになったら反省するのか」と問い詰めることはなさいません。ただ一言、「あなたはわたしを愛していますか」とだけお尋ねになるのです。罪をさばくことよりも、愛の応答を求めてくださる。失敗を責めるのではなく、愛を求めてくださる。裏切り者の愛を、諦めずに求め続けてくださる。
人の弱さを愛の強さに
イエス様が復活されたのは、ペテロの罪を罪のままで終わらせないためでした。私たちもペテロのように罪を犯します。恥ずかしい、情けない失敗を繰り返します。でも、ペテロを救い出してくださった復活の主は、私たちの罪も失敗も恥も、愛の強さに変えてくださいます。
イエス様がご自分の大切な羊たちを託したのは、一度も失敗したことのない完璧なエリートではありませんでした。取り返しのつかない大失敗をし、自分の無力さに絶望し、そして主の圧倒的な赦しを体験した「弱さを持つ罪人」に、イエス様は教会を託したのです。
「わたしの羊を飼いなさい」というイエス様の招きは、牧師や伝道師だけに向けられた招きではないと思います。もちろん牧師や伝道師には、教会について一番の責任と役割があります。しかし皆さん一人一人にも、イエス様は愛する教会を託しておられるはずです。今年の盛岡みなみ教会のテーマは、「弱さがつなぐキリストのからだ」です。自分の弱さを知っている人々の愛が、キリストのからだである教会を一つに結びます。
イースターの朝にも、私たちのうちには恐れがあるかもしれません。失敗をすることもあるでしょう。罪を犯して、イエス様を裏切ってしまうようなこともあるでしょう。しかし、どうか覚えていてください。イエス様は、私たちのその「弱さ」を、愛するための「強さ」へと変えてくださるお方です。大きな罪を犯して、失敗を犯して、心から涙を流して後悔した人こそ、「もう二度とイエス様を悲しませたくない」という本物の愛を持つようになります。そして、失敗や罪を犯したその経験があるからこそ、同じように失敗や罪に苦しむ教会仲間たちを導き励ますこともできるのです。「私も相当やらかした。今でもよくやらかす。でも、イエス様がいるから大丈夫だよ」と優しく寄り添い、主の教会を支え励ます「愛の人」として用いられるのです。
皆さんは、将来に対して楽観的でしょうか。悲観的でしょうか。「うまくいきそうだ」と思えているでしょうか。それとも、不安で仕方ないでしょうか。どちらでも大丈夫です。イエス・キリストはよみがえられました!だから大丈夫です。失敗を恐れる必要はありません。罪でさえも恐れる必要はありません。復活の主がともにいて、私たちの失敗も罪も、愛のために用いてくださるからです。このイースターの幸いを、ご一緒に喜び祝いたいと思います。お祈りをいたします。
祈り
父なる神様。もしイエス様がよみがえらなかったなら、ペテロは罪の中に死んだままでした。罪悪感や劣等感の中で、自らの失敗を責めながら死んでいくしかありませんでした。しかしイエス様は、ペテロの罪を赦すために、よみがえってくださいました。そして私たちのためにも、主はよみがえってくださいました。どうか復活の主が私たちを導いてくださり、私たちの罪も恥も弱さもすべて、愛の強さのために用いてくださいますように。主の御名によって祈ります。アーメン。

