宣愛師

聖書の説教
ガラテヤ5:19-25「聖霊」(使徒信条⑲|宣愛師)

・・・・・・しかし、私たちはふと不安になるかもしれません。自分は悔い改めて、バプテスマを受けて、クリスチャンになったはずだ。でも、正直なところ自分は、聖霊を受けたという感覚を感じたことがない。聖霊を受けて、胸が高鳴るような感覚、生まれ変わったような感覚を感じたことはない。いや、クリスチャンになったばかりの頃は、多少はそういう感覚もあったかもしれないけれど、最近は全くそんな感じはしない。あれっ、自分は本当に聖霊を受けているのだろうか・・・・・

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聖書の説教
ローマ14:1-12「かしこより来たりて、生ける者と死にたる者とをさばきたまわん」(使徒信条⑱|宣愛師)

・・・・・・“白黒思考”という言葉があります。物事を白か黒に分けたがる考え方、という意味だそうです。たとえば、「周りの人を良い人か悪い人かに分けて考えたがる」とか、「解決した問題についても、誰の責任だったかをはっきりさせないと気が済まない」とか、「挨拶されなかっただけで、その人から嫌われていると決めつける」とか、「少しでも失敗しそうな気配があると、挑戦すること自体を諦める」など、“白か黒か”、“0か100か”で考えてしまう……「はっきり白黒つけるのが心地よい」。完璧主義の人や自閉症を持つ人に限らず、多かれ少なかれすべての人が抱えている問題ではないかとも思いました・・・・・

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聖書の説教
使徒7:54-60「全能の父なる神の右に座したまえり」(使徒信条⑰|宣愛師)

・・・・・・神であるヤハウェの右の座に、王であるメシアがお座りになる。それは、ふかふかの椅子でゆっくりするためではなく、「敵」に勝利するためだと言うのです。そして、メシアが戦うとなれば、メシアの民も戦うのです……しかし、メシアの「敵」とは誰なのでしょうか。メシアの民、メシアのしもべたちが戦うべき「敵」とは、一体どこにいるのでしょうか。使徒の働き7章には、この「敵」との戦いを戦った一人の人物が登場します。ステパノと呼ばれるイエス様の弟子でした・・・・・

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使徒1:9「天に昇り」(使徒信条⑯|宣愛師)

・・・・・・せっかく目に見えるようになってくださった神様が、また天に帰ってしまわれた。人々が手で触れることのできるイエス様が、また手の届かない場所に行ってしまわれた。マタイの福音書の最後の部分を見てみると、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(28:20)とイエス様は約束してくださいました。それなのに、はるか遠くにある天に帰ってしまわれた。「いつもあなたがたとともにいます」というイエス様のことばは、不安そうな弟子たちを励ますためのリップサービスに過ぎなかったのでしょうか・・・・・

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マタイ28:1-10「死人のうちよりよみがえり」(使徒信条⑮|宣愛師)

・・・・・・週の初めの日の明け方、すなわち日曜日の朝、二人のマリアが墓を見に行きました。愛するイエス様の遺体が納められた墓です。墓の入り口は固く閉ざされていました。彼女たちの心も悲しみの中で塞ぎ込んでいました。私たちも週の初めの日、日曜日の朝、こうして教会に集まっています。日曜日の朝、私たちも不安と失意の中にあるかもしれません。昨日までの一週間、色々な出来事があった。体調を崩したり、人間関係に疲れたり、悩みに押しつぶされそうになったりして、沈んだ心のままで、塞ぎ込んだ心のままで、日曜日の朝を迎えた私たちかもしれません。しかし、この日曜日の朝、週の初めの日の朝、私たちの塞ぎ込んだ心に光が差し込むような、特別なことが起こるのです・・・・・

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マタイ27:62-66「三日目に」(使徒信条⑭|宣愛師)

・・・・・・彼らは、「三日目まで墓の番をするように」と頼みました。「わたしは三日後(三日目)によみがえる」と、イエス様が宣言していたからです。弟子たちが遺体を盗んで嘘をつき始めるかもしれないからです。「三日目まで」墓を守り切ることができれば、彼らの勝利だと言うこともできます。古い世界の勝利、新しい世界の敗北です。「三日目」が勝負の分かれ目でした・・・・・・

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Ⅰペテロ3:13-22「よみにくだり」(使徒信条⑬|宣愛師)

・・・・・・ジョット・ディ・ボンドーネ(1266-1337年)というイタリアの画家が描いた、「最後の審判」と呼ばれる壁画があります。 地獄を描いたこの壁画では、悪魔たちが様々な手段で人間たちを苦しめています。……教育効果という意味では、こういう絵画にも一定の意義があるのかもしれません。ただ私は昔から、こういう絵を観るたびに違和感を覚えていました。どうしてこの悪魔たちは、自分たちも地獄に落とされているのに、活き活きと動き回っているのだろうか。命の世界で私たちを苦しめる悪魔たちは、死後の世界でも私たちを苦しめ続けるのだろうか。結局のところ、死後の世界を支配しているのは、神様ではなく悪魔だということなのだろうか・・・・・・

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ローマ6:1-11「死にて葬られ」(使徒信条⑫|宣愛師)

・・・・・・ところが私たちキリスト者自身は、バプテスマを受けたにもかかわらず、自分自身のうちに罪が残り続けていることを知っています。バプテスマを受けて、クリスチャンになったはずなのに、相変わらず怒りっぽい自分。怠け者の自分。自己中心な自分。もちろん、神様が赦してくださることは知っています。しかしだからこそ、いつの間にか神様の赦しに甘えてしまい、罪を犯し続けてしまう。神様の赦しに甘えて罪を犯し続けるけれども、「いつか神様に見捨てられてしまうのではないか」という不安もないわけではない。そんな私たちキリスト者の現実について記されているのが、本日開かれているローマ人への手紙の第6章だと言えます。まずは1節から4節をお読みします・・・・・・

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使徒2:1-13「いろいろなことばで」(宣愛師)

・・・・・・神様がお望みになった世界は、一つの言語や民族や文化によって支配されるような、画一的な世界ではありませんでした。神様がアダムとエバにお命じになったのは、「生めよ、増えよ、地に満ちよ」(創世記1:28)というご命令でした。創世記の10章には、神様のご命令通りに、多くの民族が世界中に広がっていく様子が記録されています。しかしバベルの人々は、そのように広がった民族や文化を、「一つの話しことば」によって支配し、一つの民族の中に閉じ込めようとします。これがバベルの人々の罪であり、やがてこの地に再び現れる、大バビロン帝国の罪でした・・・・・・

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ガラテヤ3:13-14「十字架につけられ(2)」(使徒信条⑪|宣愛師)

・・・・・・私たち一人一人も同じだと思います。“黒歴史”があります。誰にも言えないような失敗や罪があります。なかったことにすることはできません。でも、なかったことにする必要もありません。聖書の中には今でも、イスラエルの黒歴史がたくさん残っています。アブラハムやモーセやダビデやペテロやパウロの黒歴史もしっかり書かれています。でも、それもぜんぶ含めて聖書です。それも含めて私たちの人生です。その恥ずかしさも、その情けなさも、全部ひっくるめて、イエス様が背負ってくださったのです・・・・・・

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