マルコ14:10-21「十二人の一人」(宣愛師)
2024年7月21日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』14章10-21節
14:10 さて、十二人の一人であるイスカリオテのユダは、祭司長たちのところへ行った。イエスを引き渡すためであった。
11 彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすればイエスをうまく引き渡せるかと、その機をうかがっていた。12 種なしパンの祭りの最初の日、すなわち、過越の子羊を屠る日、弟子たちはイエスに言った。「過越の食事ができるように、私たちは、どこへ行って用意をしましょうか。」
13 イエスは、こう言って弟子のうち二人を遣わされた。「都に入りなさい。すると、水がめを運んでいる人に出会います。その人について行きなさい。
14 そして、彼が入って行く家の主人に、『弟子たちと一緒に過越の食事をする、わたしの客間はどこかと先生が言っております』と言いなさい。
15 すると、その主人自ら、席が整えられて用意のできた二階の大広間を見せてくれます。そこでわたしたちのために用意をしなさい。」
16 弟子たちが出かけて行って都に入ると、イエスが彼らに言われたとおりであった。それで、彼らは過越の用意をした。17 夕方になって、イエスは十二人と一緒にそこに来られた。
18 そして、彼らが席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ります。」
19 弟子たちは悲しくなり、次々にイエスに言い始めた。「まさか私ではないでしょう。」
20 イエスは言われた。「十二人の一人で、わたしと一緒に手を鉢に浸している者です。
21 人の子は、自分について書かれているとおり、去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」
「実は裏切り者ではなかった」 ?
今日のテーマは「ユダの裏切り」です。まずは14章10節と11節を改めてお読みします。
14:10 さて、十二人の一人であるイスカリオテのユダは、祭司長たちのところへ行った。イエスを引き渡すためであった。11 彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすればイエスをうまく引き渡せるかと、その機をうかがっていた。
「ユダは実は裏切り者ではなかった。」こういう話が流行した時代がありました。「ユダは実は裏切り者ではなかった。むしろ、イエス様の教えを誰よりも理解していたのがユダだったのだ」というわけです。今から約50年前の1978年に、エジプトの洞窟で『ユダの福音書』という文書が発見されました。『ユダの福音書』の中に書かれていたのは、イエス様の教えを全く理解できない十一人の弟子たちの姿と、唯一イエス様の教えを理解し始めていたユダの姿です。
『ユダの福音書』を書いたのは、“グノーシス主義”と呼ばれるキリスト教の異端グループです。グノーシス主義というのを簡単に説明しますと、「この世界は悪の世界で、天国こそが善の世界。悪の世界を離れて、天国に帰ることこそが救いだ」という教えです。だから、『ユダの福音書』が描くイエス様も、早く死んで天国に帰りたかったイエス様です。そのイエス様の考えを誰よりも深く理解していたユダが、イエス様のために裏で動いたのだ、それが理解できなかった他の弟子たちが、ユダを裏切り者だと誤解したのだ。『ユダの福音書』が発見されてから、このような話があちこちで聞かれるようになりました。
「裏切り者」のレッテルを貼られ、世界中のキリスト教徒から断罪され続けてきたユダを、なんとかして救ってあげたい。ユダは本当に悪者だったのだろうか。実はそんなに悪い奴じゃなかったのではないか。いや、むしろユダこそが、イエス様のお考えを理解していたのではないか。そうやってユダを救ってあげたい気持ちはよく分かるんです。「実は裏切り者ではなかった」と再解釈してあげることによって、ユダを救ってあげたい。
でも、そうやってユダの罪を無かったことにしてあげることが、本当にユダを救うことになるのだろうか、とも思うんです。「実は裏切り者ではなかった」「実はそんなに悪い奴じゃなかった」。そういう主張の裏には、「本当に裏切り者だったら、そんな奴は赦されるはずがない」という前提があるのだと思います。「ユダは実は裏切り者ではなかった」と主張する人々は、「ありのままのユダは赦されるはずがない」と決めつけているんです。ありのままのユダは赦されるはずがない。そう決めつけているから、「実は悪い奴じゃなかったユダ」という架空の存在をでっち上げるんです。しかし、そのように事実を捻じ曲げることで、ユダは本当に救われるのでしょうか。
裏切り者のユダ。弟子たちの中で、彼は特別な存在だったのでしょうか。彼だけが大罪人だったのでしょうか。他の弟子たちはどうだったでしょうか。イエス様を裏切ったのはユダだけだったでしょうか。私たちはどうでしょうか。福音書が何度も何度も繰り返し語っているのは、ユダが「十二人の一人」だったということです。他の弟子たちとは異なる、特別な存在などではなかった。彼は私たちの仲間であり、私たちも彼の仲間である。ユダが赦されないのであれば、他の弟子たちも赦されないはずであり、私たちもまた赦されないのではないでしょうか。
続いて、12節から16節までをお読みします。
12 種なしパンの祭りの最初の日、すなわち、過越の子羊を屠る日、弟子たちはイエスに言った。「過越の食事ができるように、私たちは、どこへ行って用意をしましょうか。」
13 イエスは、こう言って弟子のうち二人を遣わされた。「都に入りなさい。すると、水がめを運んでいる人に出会います。その人について行きなさい。
14 そして、彼が入って行く家の主人に、『弟子たちと一緒に過越の食事をする、わたしの客間はどこかと先生が言っております』と言いなさい。
15 すると、その主人自ら、席が整えられて用意のできた二階の大広間を見せてくれます。そこでわたしたちのために用意をしなさい。」
16 弟子たちが出かけて行って都に入ると、イエスが彼らに言われたとおりであった。それで、彼らは過越の用意をした。
「過越の食事」というのは、エジプトで奴隷とされていたイスラエル民族、エジプト人の支配に苦しめられていたイスラエル民族が、神様によって救い出されたことを記念する特別な食事です。そしてまた、神様が新しい救いをもたらし続けてくださることを信じるお祭りです。この「過越の食事」を準備しようとして、イエス様の弟子たちが動き始めた。「イエス様のためにできることはないだろうか」と、弟子たち自ら動き出したわけです。私たちも見習いたい姿だと思います。
ところが実は、弟子たちがそうやって動き出す前から、イエス様が全て用意しておられました。すでに食事をする場所は決まっていました。すでに大広間は整えられていました。もちろん、弟子たちも準備の続きを手伝いましたが、ほとんど全ての用意をイエス様が先に済ませておられた。
しかも、弟子たちがその家を見つけるための合図も、事前に定められていました。「水がめを運んでいる人に出会います。その人について行きなさい。」これが合図でした。「水がめを運んでいる人」なんて、当時はたくさんいたんじゃないかと思うかもしれませんが、普通は水がめを運ぶのは女性で、男性が水を運ぶ時は皮袋を使っていました。「水がめを運んでいる人」というのは、ギリシャ語では男性名詞ですから、男性が水がめを運んでいるわけです。一目見ればすぐ分かる合図を、イエス様が事前に決めてくださっていました。
さらにイエス様は、その家の主人との合言葉も事前に決めてくださっていました。「弟子たちと一緒に過越の食事をする、わたしの客間はどこかと先生が言っております。」この言葉をギリシャ語から直訳すると、次のようになります。「わたしの弟子たちとともに、わたしが過越の食事をする、わたしの客間はどこか、と先生が言っております。」イエス様は、「わたし」という言葉を繰り返すことによって、この過越の食事を主催しているのが自分自身であることを強調されました。
この食事はやがて、「最後の晩餐」と呼ばれるようになります。イエス様が十字架にかけられて殺される前の、最後の食事となったからです。それゆえにこの食事は、イエス様の救いのみわざと深く結びつく食事となりました。イエス様にとってこの食事は、人々の罪のために十字架で死ぬという、ご自身の救いのみわざを成し遂げるための食事でした。それを全て、ご自分で準備してくださった。だれかに頼まれたわけではない。弟子たちが働きかけたものでもない。もちろん、ユダの助けを必要としたわけでもありません。イエス様はご自分で最後の晩餐の用意をし、ご自分で十字架の道を歩んでいかれたのです。
私たちが救われるために必要なものは、イエス様がすべて準備してくださいます。私たちがイエス様の救いをいただくために必要なものはすべて、イエス様があらかじめご準備くださいます。「自分がクリスチャンになったのは自分のおかげだ」と、私たちが勘違いすることはあるかもしれません。自分の意志で教会に行ったのだ、自分の意志で聖書を読んだのだ、自分の意志でイエス様を信じて救われたのだと思い込むかもしれません。しかし、実はぜんぶイエス様が準備してくださっていたことなのだと分かる時に、私たちは本当の意味で、救いの素晴らしさに気づかされ、そして、「自分のおかげだ」という勘違いがいかに愚かであるか、気づかされるのだと思います。
ユダが犯した最大の過ち
いよいよ、最後の晩餐が始まります。17節から21節までをお読みします。
17 夕方になって、イエスは十二人と一緒にそこに来られた。
18 そして、彼らが席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ります。」
19 弟子たちは悲しくなり、次々にイエスに言い始めた。「まさか私ではないでしょう。」
20 イエスは言われた。「十二人の一人で、わたしと一緒に手を鉢に浸している者です。
21 人の子は自分について書かれているとおり、去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」
食事の途中で突然、イエス様が話し始める。この中に裏切り者がいる。「まさか私ではないでしょう」と、弟子たちが次々に、悲しそうに話し始めました。誰が裏切り者なのか、イエス様は言おうとしません。少しずつ人数を絞っていくんです。「十二人の一人で、わたしと一緒に手を鉢に浸している者です。」「鉢」の中には苦菜のソースや果物のジャムのようなものが入っていて、パンを浸して食べたりしました。一つの「鉢」を、三人か四人くらいで一緒に使ったのだろうと考えられます。最初は「十二人」に絞られ、そこからさらに三、四人くらいに絞られていく。
どうしてイエス様は、少しずつ人数を絞っていくようなやり方をしたのでしょうか。イエス様は、ユダに名乗り出てほしかったのではないでしょうか。「イエス様、裏切り者はこの私です。あなたを裏切ろうとしていたのはこの私です。ごめんなさい。どうか赦してください」と、名乗り出てほしかったのではないでしょうか。しかし、ユダは黙っていました。いや、他の弟子たちと一緒にユダも、「まさか私ではないでしょう」と演技をし、自分の罪を必死に隠そうとしていた。
「人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」この言葉をギリシャ語から直訳的に訳し直してみると、次のようになります。「ああ、人の子を裏切るその人は。その人が生まれて来なかったほうが、その人のためによかった。」「ああ」という言葉は、「わざわいです」と訳すこともできますが、「かわいそうです」と訳されることもある言葉です。イエス様は必ずしも、「わざわいです」と言って、ユダを断罪したわけではなかったのかもしれない。
また、新改訳ではなぜか訳出されていないのですが、ギリシャ語では「その人のために」という言葉が入っています。新改訳がなぜ「その人のために」という言葉を省略してしまったのかは分かりません。似たようなギリシャ語が使われている他の箇所でも、「その人のために」という部分を省略する傾向にあるので、ここでも特に深い意味はなく、ただ省略しただけかもしれません。しかし私は、「生まれてこなければよかった」と訳すのか、「生まれてこないほうがその人のためによかった」と訳すのかでは、大きな違いがあると思います。イエス様は、「このわたしを裏切るような奴なんて、最初から生まれる価値もなかった」と断罪したわけではないと思います。むしろイエス様は、裏切り者が受けることになる神の裁きの厳しさを思い、どうにかしてその人が裁きを受けなくて済む方法はないかと、「その人のため」のことを精一杯考えてくださっていたのではないでしょうか。
それでもユダは名乗り出ませんでした。彼はイエス様が用意してくださった悔い改めのチャンスを逃しました。ユダは再び権力者たちのところに赴いて、イエス様を権力者たちの手に引き渡してしまいます。ユダは地獄への道を進んでいきました。引き返そうとはしませんでした。イエス様は少しずつ人数を絞りながら、ユダを追い詰めてくださいました。「イエス様、ごめんなさい、私です」と名乗り出ることができるように、追い詰めてくださった。それでも、ユダは引き返さない。
私たちが罪の深みに進んでいく時、イエス様が私たちを追い詰めてくださる、ということがあります。私たちが隠れて罪を犯し続ける時、「このままではバレてしまう。いっそのこと自分から謝ろう」と思えるように、わざと私たちを追い詰めてくださることがあります。しかし、それでも引き返そうとしないのが、私たちの罪です。今すぐにでも「ごめんなさい」と言って、悔い改めなければならないのに、地獄への道を突き進んでしまう私たち。引き返そうとしない私たち。
ユダが名乗り出なかったことによって、引き返さなかったことによって、何が起こったのでしょうか。「裏切り者はお前だ!せっかく悔い改めのチャンスを与えてやったのに!」と、ユダはその場で断罪されたのでしょうか。そうではありませんでした。ユダが引き返さなかった結果、何が起こったのか。イエス様が十字架にかかることになるのです。ユダが死ぬのではなく、イエス様が死ぬのです。これはどういうことでしょうか。なぜユダがではなく、イエス様が死ぬのでしょうか。ここにこそ、キリストは罪人のために死んだという、キリスト教信仰の真髄があるのです。
イエス様を裏切ったユダのその後については、マタイの福音書に次のように書かれています。マタイ27章の3節から5節。
27:3 そのころ、イエスを売ったユダはイエスが死刑に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちと長老たちに返して、言った。
4 「私は無実の人の血を売って罪を犯しました。」しかし、彼らは言った。「われわれの知ったことか。自分で始末することだ。」
5 そこで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして出て行って首をつった。
イエス様に死刑判決が下されて初めて、ユダは自分の罪を後悔し始めました。最後の晩餐の時には名乗り出なかったユダは、「私は罪を犯しました」と、ようやく口にすることができました。しかし、ユダはここで決定的な間違いを犯したんです。「私は罪を犯しました」と言うべき相手を、決定的に間違えてしまった。「祭司長たちと長老たち」は、ユダの罪を赦してはくれませんでした。彼らは人々の罪を赦す祭司たちでしたが、ユダの罪の赦しのためには犠牲をささげてくれませんでした。「われわれの知ったことか。自分で始末することだ。」
ユダはどうすべきだったのでしょうか。ユダは、赦しを求める相手を間違えたんです。祭司長たちのところにではなく、イエス様のもとに行くべきだったんです。ユダが行くべき場所は、自分のせいで死刑判決を下されたイエス様のところでした。イエス様の御前で、「私は罪を犯しました」と告白すべきだったんです。しかし、ユダにはそれができなかった。そりゃそうだと思います。彼は、イエス様が赦してくださるはずはないと思った。イエス様だけは赦してくれないと思った。
しかし、もしユダがイエス様のところに来ていたら、もしユダがイエス様の前に来ていたら、イエス様はユダを見て、「今さら何をしに来た、この裏切り者」と言われるのでしょうか。「わたしの知ったことか。自分で始末しなさい」と言われるのでしょうか。いや、イエス様は最後の最後まで、ユダを赦そうとされていました。いや、赦そうとしただけではない。ルカの福音書には、十字架の上でイエス様が次のように語られたと記録されています。ルカの福音書23章34節。
23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」
イエス様は、自分を十字架にかけた人々のために、赦しを祈りました。ここでイエス様が祈った「彼ら」の中に、ユダだけは含まれていない、などと言える理由はないと思います。イエス様はユダのためにも祈られたんです。ユダの最大の過ちは、イエス様を裏切ったことではありません。ユダの最大の過ちは、「イエス様が赦してくださるはずはない」と決めつけてしまったことです。
祭司長たちに見捨てられたユダは、首をつって死にました。キリスト教会の歴史は、裏切り者のユダを断罪し続けてきた歴史でもあります。キリスト教徒の中には、自殺は大罪であり、自殺した人々は救われないのだ、と決めつけるような人たちもいました。ダンテが書いた「神曲」の中にも、地獄の中の一番深いところで苦しんでいるユダが描かれています。しかし、それはダンテが書いたことであって、聖書が語っていることではないと、私は思います。聖書には、ユダが地獄に行ったとも天国に行ったとも書かれていませんし、「自殺は罪だ」などとも書かれていません。むしろ、自分で自分の命を絶とうと思うほどに追い込まれたことのない人々が、それを選ばざるを得なかった人々を断罪するなんて、それこそ聖書が語っている高慢の罪ではないかと思います。
たしかに、ユダは取り返しがつかないような罪を犯しました。神の御子、救い主キリストを引き渡したのです。しかし、イエス様の偉大な愛の前では、取り返しがつかない罪など一つもないんです。私は、「実はユダは裏切り者ではなかった」などという安易な再解釈を認めません。ユダは紛れもなく裏切り者でした。あってはならない大罪を犯した悪党でした。「実はユダがイエス様のことを一番理解していた」なんて大嘘です。大間違いです。ユダはイエス様のことなんて何一つ分かっていなかった。イエス様が自分をどれほど深く愛してくださっていたかを、イエス様が自分を最後の最後まで赦そうとしてくださっていたことを、ユダはこれっぽっちも理解していなかった。
ユダは大馬鹿者です。そして、私たちも大馬鹿者です。こんな自分をイエス様が赦してくれるはずがない。こんな自分のためにイエス様が祈ってくれるはずがない。こんな自分のことをイエス様が愛してくださるはずがない。そんな勘違いをしてしまう私たちこそがユダです。ユダの最大の過ちは、イエス様をみくびっていたことです。イエス様の愛がそれほどまでに大きなものであるはずはないと、勝手に決めつけたことです。私たち人間が犯す最大の罪は、イエス様を裏切ることではありません。私たち人間が犯す最大の罪は、「イエス様はもう二度と私を愛してくださらない」などと決めつけて、イエス様の本当のお心を無視してしまうことなのです。お祈りをいたします。
祈り
私たちの父なる神様。私たちにはユダを裁く資格はありません。安易な言葉でユダの罪を軽くする資格もありません。私たちにできることはただ、ユダの罪の重さを認め、そのユダと同じ罪が私自身にもあると認めることだけです。どうか神様、その罪さえも包み込んでくださるイエス様の愛の広さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を、私たちにお与えください。人知をはるかに超えたキリストの愛を知る力を、私たちにお与えください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。