ヨハネ9:1-7「神のわざが現れるため」(まなか師)

2025年11月2日 礼拝メッセージ(佐藤まなか師)
新約聖書『ヨハネの福音書』9章1-7節


1 さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。
2 弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。
4 わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。
5 わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」
6 イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、
7「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。


「だれが罪を犯したからですか」

 私が説教を担当するときには、ヨハネの福音書をご一緒に読み進めています。前回は6章を学びましたが、今日は少し間を飛ばして、9章を開くことにしました。ヨハネの福音書、まだまだ先が長いので、ここからは少しペースを上げて、かいつまみながら読み進めていきたいと思っています。9章1節と2節を、改めてお読みします。


1 さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。
2 弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」

 当時の人たちは、苦しみや災いは、罪の結果だと考えていました。自分の身に不幸が降り掛かったら、自分が罪を犯してしまったからだ、と考えるわけです。この考え方は私たちにもよく分かるのではないでしょうか。前にもお話ししたことがあるかもしれませんが、私は幼い頃、お腹を壊してトイレにこもっているとき、心の中で神様に「ごめんなさい」と繰り返す子どもでした。最近、友だちに意地悪な態度をとってしまったから。最近、親の言うことを聞かなかったから。最近、聖書を全然読んでいなかったから。だから私は神様から罰を受けているのかもしれない。そう思って、お腹の痛みに耐えながら、神様に謝り倒す。「もう悪いことはしません。いい子になります。」

 また、私たちは、誰かのせいで悪いことが起きたと考えることもあります。自分が不幸になったのは、あの人のせいだ。家族のせいだ。環境のせいだ。社会のせいだ。そう言って、原因を他のところに押し付けると、自分を責めなくて良いので、気が楽になるのです。あるいは、どこかで起きた悲惨な出来事をニュースなどで見聞きすれば、いったい誰のせいかと考えます。この事故は、誰のせいで起こったのか。この事件は、誰の罪によるものか。この災害は、この戦争は、この悲劇は、誰に責任があるのか。

 弟子たちもイエス様に尋ねました。「この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」この人は何か罪を犯したから苦しんでいるのだろう、と考えたわけです。そしてこの人は生まれつき目が見えなかったので、両親の罪のせいかもしれない、とまで考えた。病気や障がいがあること、貧困であること、弱さがあることは、自業自得なのだ。苦しんでいる人の苦しみは、その人自身のせいなのだ。そんな自己責任論のようなものも垣間見えます。

 でも、誰のせいなのか責任を問うことこそ、実は「目が見えていない人」の生き方です。私たちは、自分のせいにしたり、他人のせいにすることにとどまらない、第三の道に目が開かれていく必要があります。世界について、神様について、単純な「因果応報」で考えるのをやめなければいけません。神様は自動販売機のようなお方なのでしょうか。自動販売機にお金を入れると、飲み物が自動的に出てきます。神様はそれと同じように、私たちが良いことをすれば、報酬を与え、悪いことをすれば、罰を与える。そういうお方なのか。

 たしかに、行いに応じて結果が返ってくることもあります。もちろん、善い行いの結果として良いことが起きることもあれば、悪い行いによって悪いことが起きることもあります。親切にすれば感謝されることもあります。飲酒運転をして交通事故を起こすこともあります。でもそういったことは必然ではないのです。この世界には、因果応報とは言えない、不条理もたくさんあるわけです。親切にした恩を仇で返されることもある。酔っ払いがいつも逃げおおせることもある。人格者であるはずの人が、大きな病気や怪我をすることもある。何も悪いことをしていない小さな子どもが、事故や事件で命を落とすこともある。私たちが「不公平だ」「なんでそんなことが」と思うようなことが、この世界にはよく起こるのです。では、神様はそんな不公平を見逃しておられるのでしょうか。


「神のわざが現れるため」

 3節から5節をお読みします。


3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。
4 わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。
5 わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」

 イエス様は、誰の罪も問いませんでした。この人が罪を犯したのでもなく、両親でもない。むしろ、この人が生まれつき盲目なのは「神のわざが現れるため」だとおっしゃった。この人が苦しみに遭っているのは、神のみわざが明らかになるためなのだ。

 4節の「だれも働くことができない夜が来ます」という言葉は、未来形ではなく現在形です。なので、夜が「いつか来る」ということに限らず、「今すでに来ている」と考えることもできます。「夜」とは、すべての人が盲目になる時間帯です。視野が狭くなり、神のわざが見えなくなります。弟子たちは盲目だったので「だれが罪を犯したか」ということしか見えなくなっていました。弟子たちだけでなく、私たちは皆、盲目です。生まれながらの盲目です。誰一人としてそこに例外はない。どんなに立派に見える人も、どんなに人格的にすぐれた人も、神のわざが見えない。

 しかし、イエス様という「光」が共にいてくださるなら、私たちは「神のわざ」を見ることができる。私たちの身に起こる苦しみや災いは、神のわざが現れる舞台となるのです。

 続く6節と7節をお読みします。


6 イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、
7「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。

 唾で作った泥を目に塗られる。ちょっと衛生的に無理!と感じる方もおられるかもしれません。イエス様であれば、目に触れるだけで癒やすこともできたでしょうし、もはや触れなくても、言葉一つで癒やすことさえ可能だったはずです。それなのにどうして、こんな奇妙なことをなさったのか。「なぜそんなことを」と思うような、理不尽なことをお命じになったのか。

 日本語で「顔に泥を塗られる」といえば、名誉を失うとか、恥をかかされる、という意味です。実際のところ、この盲人は、泥を目に塗られた不格好な状態で、池に向かっていく。途中で、周りの人たちから注目され、ひそひそと後ろ指をさされたかもしれない。恥ずかしくて不甲斐ない思いをしたかもしれない。

 イエス様がこのような癒やし方をなさった理由としては、色々な説がありますが、唾を土と混ぜて泥にしたというのは、世界の初めに人が造られたときのことと関連しています。神は人を地の塵から形造った。そのことをイエス様が意識なさっていたのであれば、生まれつき盲目の人の目を開くことは、単なる視力回復のわざではなく、創造のわざであったはずです。イエス様は、父なる神の権威を委ねられて、この世界を造り変えるために、遣わされた。

 私たちは普通、「顔に泥を塗られる」ようなことが起こると、恥ずかしさのあまり、自分の失敗を責めたり、他人の罪を責めたくなってしまいます。しかし、「実はこの泥は、私のためにイエス様が塗ってくださった泥なのかもしれない」「私を造り変えるための泥なのかもしれない」と気づくとき、私たちの「盲目」は癒やされていくのです。

 今日の午後には、教会ミーティングがあります。依然として厳しい状況におかれている教会の財政についても、話し合う予定です。人間の考えからすれば、教会がこのような苦難の中を通らなければならないのは、なぜだろうかと思います。どうして神様はすぐに助けてくださらないのか、私たちのどこに原因があるのかと考え込むこともあります。伝道師として不甲斐ないとも感じます。もちろん、原因を分析することは大切なことです。しかし、「なぜこうなったか」ということしか見えていないのだとすれば、私たちはまだ「盲目」だと言わざるを得ない。私たちが目を開かれるべきなのは、私たちのこの状況を通して、神様はどんなわざをなそうとしておられるのか、ということです。

 この世の不条理を、神は放置しているのか。そんな問いかけを先ほどいたしました。泥を塗られて歩かされるということも、理不尽なことです。神はどうしてそのようなことをなさるのか。しかしよく考えてみるならば、十字架が最も不条理で、最も奇妙なことではないでしょうか。血生臭く、悲惨で、残酷な十字架刑。何の罪も持たないイエス様が十字架にかかられた。理不尽の極みです。イエス様を十字架につけたのは、私たち人間の罪です。けれども、そんな人間の罪さえ、神は光への道筋としてくださった。私たちを救うための道筋としてくださった。

 ヨハネはこの福音書の冒頭、1章5節でこう記しています。「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」そして、創世記の冒頭でこの世界が造られたとき、最初に造られたのは「光」でした。光に続いて、新しい世界が造られていったのです。ここでヨハネが言わんとしていることは、「世の光」であるイエス様が、この世界を造り変えようとしておられるということです。たとえ暗闇が私たちを覆い、不条理な苦しみがあるとしても、闇が光に打ち勝つことはない。それどころか、闇さえもイエス様の手の中で用いられる。恥ずかしくて不甲斐ない思いもするかもしれないけれど、泥を塗られることによって、私たちの目は神のわざへと開かれる。

 教会もまた、“神のわざの舞台”です。盲人の目が開かれたように、私たち盛岡みなみ教会も、さらに神のわざに目を開かれ、神のわざを体験していきたいと願います。お祈りをいたします。


祈り

 父なる神様。私たちは苦しみに遭うと、原因を考えてしまいます。自分のせいなのか、あの人のせいなのか、誰の責任なのか。そんなふうに、私たちが「だれの罪か」と問い続けるなら、私たちは盲目のままです。しかしイエス様。どうぞ私たちの目を開いてください。神のわざを見ることができるようにしてください。私たちを造り変えてください。世の光であるイエス様が、私たち盛岡みなみ教会を照らし続けてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。