コロサイ3:12-17「キリストのことばが住むために」(宣愛師)
2026年4月12日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『コロサイ人への手紙』3章12-17節

※録画設定ミスのため、説教の動画はありません
12 ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。
13 互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。
15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。
16 キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。
17 ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。
「人間の言い伝え」か、「キリストのことば」か
牧師をしていると時々、「なぜ教会が必要なんですか?」という質問を受けることがあります。「教会なんて面倒なだけじゃないですか。別に、家で聖書を読んだり、YouTubeで説教を聞いたりして、一人でクリスチャンとして生きていくということじゃダメなんですか?」
一人で聖書を学ぶ良さもあると思います。教会の面倒くささというものもあるでしょう。色々な事情で、教会に行けなくなってしまった人たちもいると思います。しかしキリスト教というものは本来、一人では学べないものだと思うのです。なぜかと言えば、今日の聖書箇所の13節に書かれているように、「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」―――これがキリスト教だからです。どんなに聖書に詳しくなったとしても、どんなに熱心に祈るようになったとしても、互いに赦し合うということは、一人では学べないことだと思うのです。
互いに赦し合う教会の姿を、パウロは14節で「愛」と呼び、15節で「キリストの平和」と呼び、16節で「キリストのことば」と呼んでいます。「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい」―――キリスト教会なんだから、キリストのことばが中心なのは当たり前じゃないか、と思うかもしれません。しかしキリスト教会といえど、「キリストのことば」ではない何かが中心になってしまうことがあるのです。それをパウロはこの手紙の2章8節で、「人間の言い伝え」と呼んでいます。
「人間の言い伝え」とは何でしょうか。たとえば当時のコロサイ教会には、「割礼を受けたユダヤ人でなければ、本物のクリスチャンにはなれない」という教えが入り込もうとしていました。イエス様の教えとは異なる価値観によって、優れているとか劣っているとか決めようとするのです。現代の教会にも、「タバコを吸う人はクリスチャンに相応しくない」とか、「金髪の人はクリスチャンっぽくない」というような「人間の言い伝え」が入り込むことがあるかもしれません。
もちろん、「人間の言い伝え」が全て悪いものだ、というわけではありません。髪を染めることはさておき、タバコはあんまり健康に良くないでしょう。でも、そうした「人間の言い伝え」が、「キリストのことば」よりも上に置かれてしまうとき、「あの人はユダヤ人じゃないから自分よりも劣っている」とか、「あの人はタバコを吸っているから自分よりも劣っている」などと高慢になり、人を優劣でさばき始めるのです。
大切なのは、私たちのうちに住んでいるのは「人間の言い伝え」なのか、それとも「キリストのことば」なのか、ということです。「主が赦してくださったように、互いに赦し合いなさい」という最も大切な教えが、「人間の言い伝え」によって蔑ろにされていないだろうか、ということです。私たちの心の中心には、私たちの教会の中心には、だれのことばが住んでいるだろうか。だれのことばが、だれの価値観が、私たちを支配しているのだろうか。
「互いに教え、忠告し合い」
どうすれば私たちは、「人間の言い伝え」ではなく、「キリストのことば」を中心に据えることができるのでしょうか。パウロは16節で、二つの方法について教えています。
一つ目の方法は、「知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い」なさい、ということです。普通、教会の中で“教える人”と言えば、牧師や伝道師を真っ先にイメージすると思います。もちろん、聖書の教えについて教会で責任を持つのは私たち牧師です。しかしパウロは、ただ一方的に牧師の話を聞くだけでなく、互いに教え合いなさい、忠告し合いなさい、と教えています。
「忠告」なんて言われると、ドキッとしてしまうかもしれません。私たちは誰しも、人から忠告されるのは嫌ですし、他人に忠告するのも角が立ちそうで嫌なものです。しかし、ここで求められている「忠告」というのは、相手の欠点をただ指摘して傷つけたりするような一方的なものではありません。それは「深い慈愛の心」に基づく忠告であり、「キリストの平和」に支配された忠告です。だから忠告された側も、「あなたなんかに言われたくないよ!」と反発するのではなく、「謙遜」と「柔和」をもって、感謝してそれを受け入れるのです。
今日から始まる新しい試みとして、礼拝後にシェアリングタイムを行います。でも、「よーし、誰かの間違いを指摘してやるぞ!」と意気込むのはやめてください。それよりも、今日語られたみことばを、自分自身はどう受け取ったのか、という分かち合いを大切にしていただきたいと思います。みことばによって、自分の考え方がどう変わったのか、どんな罪を示されたのか、どんな喜びに気づいたのか。もしくは、自分はどんなことが分からなかったのか、理解できなかったのか、理解はできたけれども、納得できなかったのか。そのことを素直に、謙遜に分かち合うときに、「互いに教え合う」という幸いな教会の姿が現れていくのだと思います。
上手に話す人が偉いとか、面白い話をする人のほうが優れているというのも、「人間の言い伝え」に基づく価値観かもしれません。たとえ、たどたどしくても、ありのままの言葉で語られる真実なことばに耳を傾け合うのが、キリストの教会の目指すところではないかと思います。
「神に向かって歌いなさい」
「キリストのことば」が豊かに住むための二つ目の方法は、16節の後半に書かれています。「詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。」私たちは、キリスト教を学ぶための唯一の方法は聖書を読むことだ、と思うかもしれません。たしかに聖書は最も大切な土台です。しかしパウロは、聖書を読んだり説教を聴いたりするだけでなく、賛美の歌を歌うことによっても、「キリストのことば」は豊かに学べるのだと言うのです。
パウロ自身も、教会に手紙を書く時にはよく、イエス様を賛美する歌を書き記しています。この手紙の1章15節以下にも美しい詩が書かれていますし、ピリピ人への手紙の2章や、テモテへの手紙第二の2章でも、パウロは美しい歌を通して「キリストのことば」を伝えようとしています。
私たちが歌う賛美歌も同じです。賛美歌は神様をほめたたえるために歌うものですが、それと同時に私たちは、賛美歌の歌詞を通して「キリストのことば」を学んでいきます。また、その歌詞を教会の仲間たちとともに、声を一つにして歌うことによって、教会はキリストのからだであるという聖書の教えを、身体全体で体験していくことにもなります。
ともに賛美歌を歌うこと、聖書について語り合うこと。この二つの道を通して私たちは、「キリストのことば」の豊かさを味わっていきます。そこには面倒くささもあるでしょう。しかし、その面倒くささのなかにこそ、一人では学べない深みがあり、愛のリアリティがあるのです。そしてその愛のリアリティの中で、私たちは「人間の言い伝え」を克服していくのです。人より優れているとか劣っているとか、そういう人間の価値観を超えて、キリストのことばに生きていくのです。
そしていつか、「なぜ教会が必要なのですか?」という質問された時に、「一人で聖書を読んでいればいいじゃないですか」と言われた時に、「それなら、私たちの教会に来てみてください」と答えられるようになりたいと思うのです。「ああ、こんな教会があるなら、一人で聖書を読むよりいいな」と思ってもらえるような、そんな豊かな交わりをご一緒に作っていきましょう。「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。」
祈り
私たちの父なる神様。様々な「人間の言い伝え」が私たちの心に居座り、イエス様が喜ばないような物の見方をして、人の評価をして、高慢になってしまう私たちです。どうか、イエス様の教えを、私たちのうちに豊かに住まわせてください。私たちがみことばを分かち合う時に、キリストの御霊が助けてくださり、分かち合いを通して、キリストのことばの豊かさをますます味わわせてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

