マルコ14:36「全能の父なる神」(使徒信条③|宣愛師)
2025年2月23日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』14章36節
14:36 そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」

「父なる神」:家父長主義の負の遺産?
「使徒信条」の学びも今日で三回目となります。本日は、「全能の父なる神を信ず」という信仰告白について、ご一緒に学びたいと思います。キリスト教ではなぜ、神を「父なる神」と呼ぶのでしょうか。また、神が「全能の神」であるとはどういうことなのでしょうか。「全能の父なる神」を信じる信仰とは、私たち一人ひとりの人生にとって、どのような意味を持つのでしょうか。
まずは、神を「父」と呼ぶことについて考えてみましょう。ある人々は次のように言います。「なぜ、“母なる神”ではなく“父なる神”でなければならないのか。神を“父”と呼ぶことによって、男女差別や男尊女卑が助長されてしまうのではないか。神を“父”と呼ぶことは、家族の中で一番偉いのは父親だという、家父長主義の負の遺産ではないのか。」
たしかに、聖書が書かれた時代というのは、女よりも男のほうが偉いと言われる時代、そして家族の中で一番偉いのは父親だ、と言われる時代でした。しかし聖書が神を「父なる神」と呼ぶのは、男尊女卑の影響を受けたからでも、家父長主義を大切にしているからでもありません。むしろその逆です。イエス様は次のように仰りました。マタイの福音書23章9節をお読みします。
23:9 あなたがたは地上で、だれかを自分たちの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただ一人、天におられる父だけです。
神だけが父であるから、誰かが偉そうにすることは許されない。「父なる神」を信じる信仰とは、男尊女卑や家父長主義を認め、人に優劣をつける信仰ではありません。むしろ、「父なる神」を信じる信仰は、「女は黙って言うことを聞いていればいいんだ」とか、「誰のおかげで飯が食えてると思ってるんだ」と偉そうに振る舞う父親たちに対して、「おまえのほうこそ、誰のおかげで生きてると思ってるんだ」と厳しく叱ってくださる、大きくて優しいお父様を信じる信仰なのです。
最近はあまり聞かないかもしれませんが、“父親不在の時代”という言葉があります。家族の中に父親がいない。もしいたとしても、会社から家に帰ってくる時間が遅すぎて、いないも同然になっている。父親の愛情というものが分からない。だから、「父なる神があなたを愛している」と言われても、いまいちピンと来ない。それどころか、ギャンブル依存症だったり、酒に酔って暴力を振るったり、家族を顧みずに不倫ばかりするような父親しか知らない人たちにとっては、「父なる神」という言葉だけでトラウマがよみがえってしまう、そんな現実もあります。
ですから、「父なる神」という呼び方をやめるべきだ、という意見もよく分かるのです。何年か前に、とあるキリスト教の映画を観て驚きました。心に深い傷を負った主人公が、三位一体の神様と一緒に、四人で共同生活をする、という物語でした。イエス様を演じる男性の俳優がいて、聖霊様を演じる女性の俳優がいて、ということはもう一人は父なる神様なのですが、その父なる神様を演じるのが黒人の女性なのです。「父なる神を女性が演じるなんて、聖書に反している!」と怒り出すクリスチャンがいないかとヒヤヒヤしました。でも、たとえばイザヤ書などを読んでみると、神様が女性的に描かれることもあるわけですから、こういう描き方も良いかもしれないと思いました。いつの間にかキリスト教会の中にも、男性中心主義や白人中心主義が入り込んでしまっているとすれば、そのことを痛烈に批判する、とても有意義な方法だと思いました。
しかし、だからと言って私たちは、「父なる神」という言葉そのものを捨ててしまう必要はないとも思うのです。“父親不在の時代”だからこそ、もしくは暴力的な父親のトラウマが広がる時代だからこそ、「われは父なる神を信ず」と告白し続けるべきだとさえ思うのです。本物の父親の愛というものを知らない人たちに、「あなたを苦しめ続けてきたあの男は、あなたの本当の父親ではない」ということを、そして、「あなたの本当の父親は、あなたを心から愛しておられる優しいお父様なのだ」ということを、はっきりと伝えてあげることが必要ではないかと思うのです。
それと同時に私たちは、暴力的にふるまったり、家族を大切にできない憐れな父親たちのためにも、「父なる神」について語ってあげる必要があると思うのです。DVの加害者になってしまった父親たちの話をカウンセラーが聞くと、彼ら自身の父親もまた同じような父親だったという場合が多いそうです。父親の愛を知ることができなかった。父親とは本来どのような存在なのかを知る機会がなかった。だから、父親の威厳とは大きな声で物を言うことだと勘違いしている。「誰のおかげで飯が食えてると思ってるんだ」というような言い方しか分からない。彼らにもまた、彼ら自身が抱えているトラウマを癒やしてくれる、優しい父親の愛が必要なのです。そうだとすれば、私たちキリスト教会は、時代錯誤だという理由で「父なる神」という言葉を捨て去ってしまうのではなく、むしろ今まで以上にはっきりと「われは父なる神を信ず」と告白し、父なる神の厳しくも優しいまことの愛を伝え続け、“父親不在”の現代社会に光を示したいと思うのです。
「全能の神」:なぜ悪を滅ぼさないのか?
続いて、「全能の神」ということについて考えたいと思います。神が全能であるということは、キリスト教の基本的信仰です。たとえばエレミヤ書32章17節では次のように告白されています。
32:17 『ああ、神、主よ、ご覧ください。あなたは大いなる力と、伸ばされた御腕をもって天と地を造られました。あなたにとって不可能なことは一つもありません。
科学を信じると主張する人々は、この宇宙の法則に反するような奇跡なんて起こるはずがない、と考えます。しかし、宇宙の法則そのものを神がお造りになったなら、その法則を越えることなど朝飯前のはずです。神がこの宇宙の全てをお造りになり、私たち一人ひとりの命もお造りになったのであれば、不治の病を癒やすことも、処女をみごもらせることも、死者をよみがえらせることも不可能ではないはずです。
しかし、「全能の神」を信じるということには、もっと複雑な問題も関わってきます。もし本当に神が「全能の神」であるならば、どうしてこの世界には悪が存在するのか。神が全能であるなら、どうしてこんなにも多くの苦しみが存在するのか。神が本当に「全能の神」であるなら、どうして今すぐにでも、この世界のすべての悪を消し去らないのか。簡単に答えられる問題ではありません。おそらく、皆が納得できるような明確な答えは存在しないだろうとも思います。しかし、「全能の神」を信じると告白するならば、避けては通れない問題です。
先日まなか先生が、外出先で一人のおばさんがこんな話をしていたのを、たまたま耳にしたそうです。「ニュースを見てるとさ、執行猶予何年とか懲役何年とか言うけどね、明らかに悪いことをしたって分かってるなら、刑務所に入れたりしないで、すぐに死刑にすればいいのよ。刑務所に容れておくお金ももったいないわよ。」このおばさんの意見にも一理あるかもしれません。執行猶予や懲役何年なんて甘いことを言っていたら、抑止力が機能せずに犯罪者が増えてしまうではないか。刑務所に人を収容して衣食住を提供するのにも、国の貴重な税金が使われてしまうではないか。だったらさっさと死刑にしたほうが、社会全体のために有益ではないか。
この考えに則って考えるならば、こういうことにもなるかもしれません。神が全能であるなら、あの暴力的な指導者たちを今すぐに殺してしまえばよいではないか、神が全能であるなら、悪質ないじめの加害者たちに対して、今すぐに被害者と同じかそれ以上の苦しみを与えればよいではないか。神が全能であるなら、深酒に浸って家族に暴力を振るうあの偽物の父親を、今すぐ地獄に落としてくださればよいではないか。それこそが神の正義なのではないか。
しかし、私たちが聖書を読む中で気付かされるのは、人間が合理的だと考えてしまうそのような考えが、そのような正義が、どれほど神様の御心からかけ離れたものであるか、ということです。マタイの福音書5章43節から45節、そしてペテロの手紙第二3章9節をお読みします。
【マタイ5:43-45】43『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
45 天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。
【第二ペテロ3:9】主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したこと〔神が全人類をさばく日〕を遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
「今すぐに殺してしまえばいい」と、おばさんに冷たく切り捨ててられてしまった犯罪者たちも、神様にとってはかけがえのない愛する息子たち、愛する娘たちなのだということを、聖書は私たちに気づかせようとしています。もちろん、被害者たちの痛みも、神様は決してお忘れになりません。戦争や貧困で苦しんでいる人々の痛み、職場や学校や家庭の中で抑圧されている人々の痛み、神様はよく分かってくださっています。一人ひとりの苦しみの叫びに、誰よりも耳を傾けてくださるのは神様です。しかしそれでも神様は、それならあの犯罪者たちを、あの加害者たちを、今すぐに滅ぼしてやろう、とは仰らないのです。いつでもすべてを滅ぼすことのできる「全能の神」は、どんな悪人であっても滅びることを望まない「父なる神」でもあるからです。
むしろ私たちが問うべきなのは、私自身はどうなのか、ということかもしれません。私は被害者でしかないのか、ということです。「神はなぜ悪を滅ぼさないのか?」という問いは、「神はなぜ私を滅ぼさないのか?」という問いかもしれない、ということです。ペテロは、「あなたがたに対して忍耐しておられる」と書きました。「あの人たち」の滅びとか、「あの人たち」の悔い改めではなくて、「あなたがた」自身について考えなさい、とペテロは書いたのです。ここでペテロが「あなたがた」と言ったのは、教会に集まるクリスチャンたちのことです。自分の罪を棚上げにして、「神はなぜあの人たちを滅ぼさないのか?」と文句を言う資格があるだろうか。悔い改めるべき罪人は、実は自分自身なのではないか。この事実に気づいてこそ初めて、悪人にも太陽を昇らせ、正しくない人にも雨を降らせてくださる、父なる神の愛が分かるのではないでしょうか。
「全能の父なる神」:その痛みを背負う人
神は全能の神であり、すべてを滅ぼす力を持っておられる。しかしそれと同時に、神は父なる神であり、どんな悪人でも心から愛しておられる。この二つのことを思い巡らしながら、マルコの福音書14章36節に記された、イエス様の祈りの言葉に耳を傾けたいと思います。
14:36 そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」
この祈りは、イエス様が十字架にかけられる前夜に祈られた祈りです。「アバ」というアラム語は、愛情と親しみを込めて父親に呼びかける言葉です。「アバ、父よ、あなたはわたしを愛してくださる優しいお父様です。そして、あなたは何でもおできになります。ですからどうか、この苦しみを取り除いてください。」しかし、イエス様の祈りはここで終わりませんでした。神様に注文をつけて、「あなたは父であり、全能なのですから、この苦しみを取り除いてください」と訴えるだけの祈りではありませんでした。「しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」
イエス様はなぜ十字架への道を進んだのでしょうか。それは、「全能の父なる神」の痛みをともに背負うためだったのではないでしょうか。エルサレムの権力者たちは、貧しい人々を虐げ続けていました。それに対して貧しい人々も、怒りと暴力に任せて反乱戦争を何度も仕掛け、権力者たちの命を奪うテロ行為を繰り返していました。互いが互いを憎み、怒りの連鎖が膨れ上がる、そのような世界のど真ん中に立ちはだかって、右からも左からも迫り来る暴力を、イエス様はたった一人で背負われた。あいつが悪い、いや、こいつが悪いと言って、どちらかが滅ぼされることによって造られる平和ではなく、すべての人が自分自身の罪に気づき、悔い改めて武器を捨て、敵を愛して赦すことを学び、父なる神のもとに一つの家族となる、そのような新しい世界を作るために、イエス様は自らのからだを犠牲として、平和のいけにえとして差し出されたのです。
「なぜ神は今すぐにこの世界の悪を滅ぼさないのか。」そのように神様を批判することは簡単でしょう。「本当は全能ではないのだ」と批判したり、「全能だとしても、人間の苦しみなんて何とも思っていない冷酷な神なのだ」と批判することも簡単でしょう。「あの父親が悪い」「あの政治家が悪い」「あの人たちが悪い」そして「神様が悪い」と批判することもできるでしょう。しかし、そのような批判を口にすることよりも大切なことは、「全能の父なる神」が背負ってくださっている痛みをともに背負うことなのではないでしょうか。私たち一人ひとりを愛するあまりに神様が抱えておられる深い痛みやジレンマを少しでも知ろうと努力し、「この私にできることは何だろうか」と考え、自らの生き方や考え方を悔い改め、十字架を背負って歩み出し、憎しみと暴力の真ん中に立つことのほうが大切なのではないでしょうか。「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と告白することは、イエス様とともに、この神の痛みを背負うことでもあるはずです。
このあと皆さんとご一緒に歌う讃美歌の歌詞は、「フランシスコの平和の祈り」と呼ばれる有名な祈りが元となっています。この祈りが私たち自身の祈りとなることを願い求めたいと思います。
主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。
憎しみのある所に愛を、侮辱のある所に赦しを、
分裂のある所に和解を、誤りのある所に真実を、
疑いのある所に信頼を、絶望のある所に希望を、
闇のある所にあなたの光を、悲しみのある所に喜びを置かせてください。主よ、慰められるよりも慰めることを、理解されるより理解することを、
愛されるよりも愛することを求めさせてください。与えることによって人は受け取り、忘れられることによって人は見出し、
赦すことで人は赦され、死ぬことで人は永遠の命によみがえるからです。
お祈りをいたしましょう。
祈り
私たち一人ひとりを心から愛し、私たちには計り知ることのできないご計画をもって、この世界の回復のために最善を為してくださっている、全能の父なる神様。あなたが本当に全能であられるのか、本当に父と呼ぶに相応しい愛なるお方であるのか、そのようなことを偉そうに論じるよりも、あなたの平和の道具として用いていただく人生を選び取ることができますように。全能であり、父であられるからこそ、あなたが背負わざるを得ないその痛みが、私たちの痛みともなり、イエス様が背負われた十字架を、私たちもともに背負うことができますように。そして私たちが傷つき、疲れ果てる時には、あなたの全能の力といつくしみが私たちを優しく包み、再び立ち上がるための力を与えてくださいますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。