宣愛師
マルコ9:30-37「だれが一番偉いか」(宣愛師)
・・・・・・宣教師や牧師でさえも、「だれが一番偉いか」という議論に囚われてしまうものです。「どれだけ多くの人に洗礼を授けたか」「どれだけ立派な礼拝堂を建てたか」「どれだけ大人数の教会を作り上げたか」「あの牧師はどうだ、あの教会はどうだ」と比べてしまう。優越感に浸ったり、嫉妬をしたりする。自分よりも優秀な牧師について“あら探し”をしてみれば、その逆に、なかなか上手く行かない自分の働きについては、色々な言い訳を並べ立てて納得してみたりする。だれが一番偉いか。こういう価値観の中では、私たちは幸せになれません。しかし、幸せになれないと分かっていても、抜け出すこともできない・・・・・・
マルコ9:14-29「祈りの中にいなければ」(宣愛師)
・・・・・・ある牧師の話を思い出します。少し汚い話ですけれども、その牧師がこんな風に言うんです。「私は、トイレに行く度に、神様に感謝するんです。おしっこをする度に、うんちをする度に、神様に感謝の祈りを献げるんです。『神様、今日もおしっこができて感謝します。うんちができて感謝します』と祈るんです。」初めて聴いたときは、「なんだか変なことを言う人だなあ」と思いましたけれど、でも今では、「祈りの中にいる」というのは、そういうことなんだなと納得するんです・・・・・・
マルコ9:2-13「山を下りながら」(宣愛師)
・・・・・・「幕屋を三つ造りましょう」と、それらしいことを言ってみたペテロでしたが、実際には「何を言ったらよいのか分からなかった。」マルコの福音書は、ペテロの証言によって書かれたと言われますから、ペテロ自身が恥ずかしそうにしながら、「いやあ、あの時はホント、何を言ったらいいのか分からなかったんだよね」と語ったのかもしれません。……このとき、ペテロは少なくとも二つの間違いを犯しました・・・・・・
マルコ8:38-9:1「神の国が力をもって」(宣愛師)
・・・・・・でも、本当に神の国は来たのでしょうか。神の国なんて来る前に、弟子たちはみんな死んでしまったのではないでしょうか。それどころか、二千年経った今でも、いつまで経っても神の国はやって来ないし、イエス様も来てくださらない。相変わらずこの世界は、戦争や貧困に満ちているじゃないか。相変わらずこの世界は人間の罪で満ちているじゃないか。本当に神の国は来るのでしょうか? イエス様が言っていたことは、全て間違いだったのでしょうか?・・・・・・
Ⅰヨハネ3:16-20「愛が分かったのです」(宣愛師)
・・・・・・「それによって愛が分かった」というのは、とても正直な言葉だなあと思います。「それまでは、私たちには愛が分からなかった」という告白だからです。……「愛」とは何か。私たちは分かったつもりかもしれません。小説を読んだり、漫画を読んだり、映画を観たりして、「ああ、これが愛か」と分かったつもりでいる。そして、分かったつもりの「愛」という言葉で、「いつまでも君を愛しているよ」と言ってみたり、「自分は本当に愛されているんだろうか」と悩んだりする・・・・・・
マルコ8:34-37「いのちの正しい使い方」(宣愛師)
・・・・・・私たちは、長野さんのような人格者ではないかもしれません。長野さんのように熱心な信仰もなければ、人から尊敬されるほど真面目に働いているわけでもないかもしれない。しかし、今日私たちが心に留めたいのは、長野さんの熱心さや真面目さではなく、“いのちについての考え方”です・・・・・・
マルコ8:22-34「はっきりと見えるように」(宣愛師)
・・・・・・私たちは、“イエス様がどれだけ楽しませてくださったか”だけでなく、“イエス様のためにどれだけ苦しむことができたか”ということも、恵みの一部として思い出しても良いと思います。盛岡みなみ教会のこの19年間の歩みも、楽しいことばかりではなかったはずです。色々な苦しみがあったはずです。しかし、それが「キリストのために苦しむこと」であったならば、それは私たちの恵みでもある・・・・・・
マルコ8:11-21「まだ証拠が足りないのか」(宣愛師)
・・・・・・なので、洗礼を受けた後も私は、「ああ、自分も他のクリスチャンみたいに、もっとはっきりとしたきっかけがあれば、今よりも強くてしっかりとした信仰になるかもしれないのになあ」とか思ったりしたんですね。これは今でも思います。なんだか自分の信仰は生ぬるい気がして、もっと良いきっかけがあれば、なんて思ったりするんです・・・・・・
マルコ8:1-10「分からず屋の弟子たち」(宣愛師)
・・・・・・「あれ、似たような話、前にも読んだことあるかも?」というのは、今日の聖書箇所に限ったことではないかもしれません。聖書の中には、似たような話とか、同じような言葉がよく繰り返されます。「恐れてはならない」とか「安心しなさい」という御言葉は、聖書の中に百回以上出てきます。どうして神様は、そんなに何度も同じことを言われるのか・・・・・・
マルコ7:31-37「口止めされればされるほど」(宣愛師)
・・・・・・新しい時代の始まりは、イエス様にとって必ずしも楽しいことばかりではありませんでした。なぜなら、“古い時代”の人々との戦いがいよいよ激しくなるからです。ガリレオが「地動説」を主張した時、“古い人々”はそれを揉み消そうとしました。新しい時代が始まろうとすれば、必ずそれを拒否する人々がいます。“古い時代”と“新しい時代”の戦いが始まる。その重大な瞬間に際して、イエス様は深くため息をついた・・・・・・

