宣愛師
ルカ12:32「小さな群れよ、恐れるな」(宣愛師)
・・・・・・盛岡みなみ教会の創立20周年、おめでとうございます。そして、この20年間、盛岡みなみ教会を守り導いてくださった、私たちの主イエス・キリストの御名を賛美いたします。今日はお祝いの日です。めでたい日です。……しかし、この特別な喜びの日にあっても、私たちは本当に喜べているかと問われると、どうでしょうか。喜んでいる場合だろうかと、心のどこかで思ってしまうところがあるかもしれません。めでたく20周年を迎えることができた。でも、これからあと何年やっていけるだろうか・・・・・・
黙示録10:8-11「開かれた巻物」(宣愛師)
・・・・・・私が東京基督教大学で学んでいた頃……迫害が非常に厳しい国の一人の牧師が大学に来てくださり、お話を聞く機会がありました。「私たちのために祈ってほしい」と、その牧師は言いました。私はてっきり、「迫害が終わるように祈ってほしい」という話だろうと予想していました。ところがその牧師は、「迫害が終わるように祈ってほしい」ではなく、「迫害の中でもイエスを証しし続けられるように祈ってほしい」と言ったんです・・・・・・
マルコ13:9-13「最後まで耐え忍ぶ人」(宣愛師)
・・・・・・イエス様は、「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます」と言いました。そして実際に、イエス様を信じる人々は、狭いエルサレムの中でも、広いローマ帝国の中でも、あらゆる社会から憎まれ、迫害を受けました。中には殺される人もいました。なぜ憎まれるのでしょうか? イエス様の教えに従う人々はなぜ、社会から憎まれてしまうのでしょうか?……キリスト教が社会から憎まれる最大の理由。それは、キリスト教が“差別の壁”を壊そうとするからです・・・・・・
マルコ13:3-8「産みの苦しみの始まり」(宣愛師)
・・・・・・今日の説教でも、キリスト教に対する一つの批判を取り扱いたいと思っています。その批判というのは、「聖書には『世の終わりが来る』と書いてあるのに、世の終わりなんて来ないじゃないか」というものです。「世の終わりなんて来ないじゃないか!聖書には『世の終わりにキリストが再び来て、この世界を裁く』と書いてあるのに、聖書が書かれてから二千年近く経った今でも、世の終わりなんて全然来ないじゃないか!聖書もキリストも嘘つきじゃないか!」と。この批判に答えるためには、そもそも「世の終わり」とは何なのか、聖書には何と書かれているのか、ということを確認する必要があります・・・・・・
マルコ13:1-2「崩れ去る神殿」(宣愛師)
・・・・・・私たちはどうしても、崩れないもののほうが良いと思い込んでしまうでしょう。崩れないものを積み上げて、人生を確かなものにしていこう、と考えるものです。「人生のキャリアを積み上げる」という表現が使われることもあります。「お金をこつこつ積み立てましょう」と言われることもあるでしょう。勉強も、「こつこつ積み上げていかないとすぐに他の人に置いていかれる」などと言われて、私たちは焦ってしまうものです。……しかし神様は、「崩れたっていいじゃないか」と仰るんです。「崩れないようなものを作らなくていいじゃないか」と仰るんです・・・・・・
エペソ2:8-10「この恵みのゆえに」(宣愛師)
・・・・・・ある教会で行われた集会に、クリスチャンではない友人と一緒に参加した時のことです。賛美歌を歌ったり、聖書のメッセージを聞いたり、メッセージに関する感想を分かち合ったりする集会でしたが、気づいたらその友人が集会を抜けて、後ろの方にひとり座って泣いてしまいました。どうしたのかと話を聞くと、「クリスチャンの中にいるのが辛くなった」と言うんです。「教会も結局はキラキラした人たちの集まりなんだと思って、そこにいるのが辛くなった」と・・・・・・
ヨハネ20:19「フラットランドを超えて」(宣愛師)
・・・・・・突然現れたかと思えば、突然見えなくなる。「いつもあなたがたとともにいます」と言ってくださったかと思えば、天に昇って行ってしまう。……復活したイエス様はなぜ、こんなにもやりたい放題で、自由奔放なのでしょうか。そしてなぜ、イエス様のやりたい放題が、私たちには全く理解できないのでしょうか。このことを理解するためには、私たちが生きている次元と、復活したイエス様が生きておられる次元の違いについて、考えてみる必要があります・・・・・・
マルコ12:35-44「やもめを見ている神」(宣愛師)
・・・・・・「あなたはいくらの献金を、何のために捧げるのか。」「レプタ二枚を、神様への感謝のために」と、彼女は答える。周りの金持ちたちの献金によって、ラッパが大きな音を響かせる中で、「レプタ二枚」と答えることは、恥ずかしいことだったでしょう。惨めだったでしょう。祭司たちも心の中で「たったの125円か。それが何の役に立つのだ。何の足しにもならない」と馬鹿にしたかもしれません。……しかし、私たちが注目すべきことは、たった二枚のレプタしか献げられないとしても、それでもこのやもめが、礼拝をするために神殿に来た、ということだと思います・・・・・・
マルコ12:28-34「礼拝している場合なのか」(宣愛師)
・・・・・・「別に神様なんて信じなくても、隣人を愛することくらいできるさ」と言う人もいるでしょう。そして実際に、そういう人たちがいます。クリスチャンでなくても、神様を信じていなくても、困っている人たちのために見返りも求めず働き続けるような、素晴らしい人たちがいます。そういう人たちからすれば、毎週日曜日に礼拝に集まるクリスチャンを見て、「賛美歌なんて歌っている暇があったら、ボランティアでもしたらどうですか」と思われても仕方がないかもしれません・・・・・・
マルコ12:18-27「生きている者の神」(宣愛師)
・・・・・・聖書とは何でしょうか。聖書には何が書かれているのでしょうか。もちろん聖書には、色々と細かいルールも書かれています。上手に生きていくための知恵も書かれています。しかし究極的には、聖書において語られているのはたった一つのことです。それは、“死すべき人間と永遠の契約を結ばれた神”のことです・・・・・・

